#723 大麦と小麦の名前の由来

小麦と大麦は名前が似ているので、つい兄弟のように思ってしまいますが、実はかなり異なる植物です。実際、英語では、小麦はウィート(wheat)、大麦はバーリー(barley)です。では日本では、どうしてこんな名前になったのか、職業柄大きな疑問に思い、これまでにも何度か考えてみました(#541#285)。結果、諸説あるものの、命名当時は、オオムギはメジャーな穀物、コムギはマイナーな穀物であったため、大麦と小麦になったと考えるのが自然です。

小麦は、小麦特有のグルテン(粘弾性をもつタンパク質)により、生地を自由自在に成形することができます。そして食味の良さと相まって、食用穀物ではダントツのNO1となりました。ただ小麦はその構造上、小麦粉となる胚乳部分を取り出すことが技術的に難しく、効率よく製粉できるようになったのは近代になってからです。よって命名当時は粒食として利用できる大麦の方が、より多く利用されていたので、オオムギが大麦となり、コムギが小麦となったと考えられます(職業柄、この考え方を支持しています)。

さて今回、新しい資料が見つかったので、改めて「大麦と小麦」をテーマに取り上げてみました。「麵の文化史(石毛直道著)」の中に参考文献として「日本古代穀物史の研究(鋳方貞亮著、吉川弘文館、1977.4.1)」がありました。そしてこの238頁に、「麦を大麦と小麦とに分けた記録の初見は、賦役令、義倉の条である。」との記述があります。賦役令は養老令(718年)の第10番目の編目なので、8世紀には、日本では大麦や小麦という言葉が既に存在していたことになります。

そして「麦の自然史(北海道大学出版会、2010.3.31)」の第2章「ムギを表わす古漢字(渡辺 武著)」の中に、更に起源を遡ることができる資料がありました。ムギを表わす様々な古漢字がでてくるので、ちょっとややこしいのですが、無理を承知で敢えてまとめてみました。

2世紀初頭の後漢の古典学者・許慎(きょしん)が著した字書「説文解字(以下説文、せつもん)」の中に、ムギを表わす代表的な漢字として、「來(らい)」と「麥(むぎ)」が登場します。「來」は「來麰(らいぼう)」のこと(後述)。その形状の記述からはオオムギであろうと推測されます。一方、「麥」は來の下に足形を示す「夂(ちかんむり)」を加えた形になっていて、この「夂」はおそらく「麦ふみ」のことだろうと推測されます。

また「説文」にはもうひとつムギを意味する「麰(ぼう)」なる文字も収録されています。この「麰」は、通常は「來麰(らいぼう)」という熟語で使用され、オオムギとして固定することもありますが、当時はオオムギとコムギを区別する知識は普及していなかったので、ムギ類全般を指す言葉であろうと推測されます。六分画あるいは八分画の石臼の普及は、紀元前2世紀の漢代以降です。また粉食の普及もそれに並行するので、中国におけるコムギの栽培普及は、漢代であると考えられます。

中国の字書で大小のコムギの区分が初めて立てられたのは、三国魏(3世紀)の張揖(ちょうゆう)の「広雅(こうが)」においてです。本書の巻十上釈草の条に「大麥は麰なり、小麥は麳なり」と記されています。麳(らい)は、ムギに関係しますが、それまでの來と区別するために、漢代あたりに麥編を添えて造字されたと考えられます。つまり麳は來と通用します。そして本来は來麰と熟する語彙が、張揖によって「麳はコムギ、麰はオオムギ」にそれぞれ固定されます。つまり張揖が麳・麰の文字に対して、意図的に大小のムギを振り当てた印象を受けます。後漢時代(2世紀)の農書「四民月令(しみんがつりょう)」の6月の条中に、大小のムギとハダカムギの投機的買い付け記事がみられるので、漢代には大小のムギが栽培されていたことがわかります。

つまり大麥及び小麥は、3世紀に張揖により造語されたことになります。そしてここでも「なぜ麰が大麥で、麳が小麥なのか?」という疑問がわきますが、当時は粉食が普及してきたとはいえ、主流はやはりオオムギ(麰)であったので、こちらにメジャーを意味する「大」を張揖がつけたのではないかと、想像します。