#704 製粉用道具の登場①・・・搗臼

小麦の耕作が始まり、収穫量が増えてくると、農具の改良にあわせて、それを挽く道具の性能も向上します。そして様々な動きを応用した粉砕道具が使われるようになります。例えば上下運動である「搗(つ)く」という動作には、搗臼のような形が良いのは明らかで、一部の地域では背の高い円柱状の搗臼が発達しました(B)。

ただ一般には底の浅い搗臼を使い、回転運動と多少の上下運動を組み合わせた方が、人気がありました(C)。理由は、細長くなると内側も外側も加工が難しくなるからです。前後運動を利用したものでは、初期の製粉道具では最も重要なサドルストーン(saddlestone)やメタテー(metate)が考案されます(A、D、E)。これらの道具が登場した利点は、なんといっても搗臼に比べて加工が簡単なこと、それに挽き加減を正確に調整できたからです。

【初期の粉砕道具による様々な動作】
A:パウンダー・ラバー、水平方向にランダムに動くので方向性はありません。
B:深い搗臼、上下運動になります。
C:浅い搗臼、水平方向の円運動と多少の上下運動。
DとE:サドルストーンおよびメタテー、共に前後運動ですが、Dは下石にカーブをつけ、Eは両端に畝(ガード)をつけています。

搗臼の中で小麦を粉砕して、粗挽き粉にするのは、粗野ではあるけれど単純明快な方法だったので、永い間、多くの人に支持されました。もっとも最初は、搗臼の造りがあまりに稚拙で、満足に立たないものもあったので、きっと膝で挟むか、もしくは地面に埋め込んで使用したに違いありません。すりこぎは、細長い石であればほとんど何でも間にあいました。

古代の特筆すべき例として、紀元前三千年紀の搗臼があります。これは外周に刻まれた原くさび形文字によりメソポタミア、ラガシュのエンアンナトゥム一世の所有物であることがわかりました(下図参照)。その銘刻には、「農耕神、ラガシュの主神、最高神エンリルに従う戦士、そして主神であるニンギルス(Ningirsu)が、ラガシュの統治者であるエンアンナトゥムの長寿を願い、小麦を挽くための搗臼を捧げる」とあります。この銘刻の中の矢印で示した部分は「S^E」で、これは小麦を表します。象形文字は、事実を雄弁に語ってくれます。

次の二つの搗臼は、時と場所共に別のところで考案されたものですが、これを見ると人々は問題に直面したときは、よく似た方法で対処することがよくわかります。木の幹から搗臼を切りぬく場合は、誰がやっても似たような形になりますが、竪杵(たてぎね)になると話は別で、使い方によってその効率的な形状は変わってきます。重い竪杵だと、力強い男性でないと使いこなすのは無理だし、そうでなければ二人で調子をとりながら搗くこともできます。サドルストーンは一人用ですが、このタイプの竪杵は、二人で同時に使えることが特長で、これが非効率的な粉砕方法であったにも拘わらず、永きにわたり使用され続けてきた理由でしょう。

左の搗臼は、スイスの湖畔に棲んでいた古代人が使用していたもので、木の幹をくり抜いて作った搗臼とその竪杵(紀元前1,500年頃)。右は同じような形をしていますが、ニューヨーク州北部に住んでいた19世紀のイロコイ・インディアン(Iroquois)が使用していた搗臼です。また中央上の二人が竪杵で搗いている絵は、およそ紀元前1,450年のエジプトのお墓に描かれていたもの。また中央下の男女が竪杵を搗いている絵は、紀元前500年頃のギリシャ時代の壺に描かれています。また上下の竪杵はどちらもギリシャ時代の壺に描かれていたものです。

蛇足ながらすり鉢で使用する棒は、「すりこぎ棒」、また搗臼で使用する長い杵は「竪杵」といって、日本語では区別しています。しかし形状が似ているせいか、英語ではどちらもpestleというようです。