#703 不易流行・「塩」からみた讃岐うどんの歴史(岡原雄二著)

岡原雄二氏は、うどん県のある製麺機メーカーの経営者です。うどん県で製麺機といえば、うどんを作る機械のこと。昔はどこのうどん店でも、麺打ち台と麺棒があり、うどんはすべて手打ちでした。しかし時代は変わり、今や手打ちうどんといえば、ごく限られた専門店、そして愛好家が趣味で打つうどんだけとなりました。手打ちが旨いのはわかっているけれど、熟練職人の育成や労働時間の制約などの問題で、なかなか実現できません。そこで登場するのが、製麺機です。

ただ最初に製麺機が誕生したときの時代背景は少々異なります。時代は昭和30年代に遡ります。当時、県外からのある観光客から、「讃岐うどんは美味しいが、素足での足踏み作業は不潔だ」と指摘されます。当時は、「足袋をはき、ゴザの上からならOK」、ということで香川県は、足踏みを公認していました。しかしひょっとしてそのような指摘が事実とすれば、清潔な製造方法を義務づけた条例に反することになります。担当の係は困り果て、業界関係者に相談しますが、「足踏みをやめたら、うまいうどんはでけへん」と猛反発されたため、当時は注意を促すだけに終ってしまいます。

ところがひょんなところから事態は動きます。ある製麺所では、足踏みの代わりに、わら打ち機を使っているというのです。わら打ち機というのは、硬いわらを柔らかくほぐし、編みやすくするための機械です。具体的には、木の横づちでわらを叩いてほぐすわけですが、この弾力性のある加圧が、ひざや腰ではずみをつけて踏むのに似ていることがわかりました。そこでこの横づちの動きを足踏みに応用することになりました。

1965年(昭和40)の秋、高松保健所の所長が岡原農機㈱を訪ね、「うどんの足踏み代用機」の開発を依頼します。結果、わら打ち機が、新しく「足踏み代用機」として生まれ変わりました。岡原農機は、そこから新しく製麺機メーカーとしてスタートし今日に至ります。ただ当初は、どこの製麺所にも相手にされず、不遇の時期が続き、軌道に乗るまでは、随分とご苦労されたようです。

さて本書は、足踏みの時代から55年間にわたり、製麺機による効率化を通じ、さぬきうどん業界の近代化に貢献された岡原氏からみたさぬきうどんの歴史です。ご本人も書かれているように、うどんの学術書でもなければ歴史書でもありません。ご本人自らの経験を基に、独自の視点からまとめたさぬきうどんの記録です。一例を挙げると、「塩」に着目して、昔は塩が高価であったことから、現在のように塩を十分に使用したうどんが登場するのは、比較的近年になってからではないか、と推測されます。

確かに江戸時代の料理書「料理物語」(1643年)には、「土三寒五」と現在の塩加減に近いうどんのレシピが紹介されてはいますが、実際は、それは例外的じゃないか、っと。となると金毘羅祭礼図(1688-1703年)(#554)には、3軒のうどん店が描かれていますが、それらは湯煎したうどんではなく、塩を使用しない打込みうどんかもしれません。もちろん描画からだけでは、かけうどんか打込みうどんかは判別できません。ただ打込みうどんの方が、作業もずっと簡単だし、大衆的なうどん屋さんでは、こちらの方がずっと現実的です。

タイトルの「不易流行」とは、「不易=かわらないもの」+「流行=はやるもの」ということで、本質は維持しながら、時代とともに変化を臨機応変に取り入れていくという感じでしょうか。うどんについても本質は不変であるけれども、時代に応じて求められるうどんは異なる。よってそれに対応しなければならないと主張しておられるようです。