#554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店

f554金毘羅祭礼図についてはこれまで、何度かご紹介しました(#384#539)。これがなぜ重要かといえば、ここに現在確認されている最古のさぬきうどん店が描かれているからです。さぬきうどんといえば、弘法大師空海が唐より「うどん」の製法を持ち帰ったという空海伝説(806年)が余りに有名ですが、これは伝聞証拠で裏が取れてるわけではありません。また讃岐最古の水車としては、仁和(にんな)年間、旧滝宮村の中車(886年頃)が有名ですが、中車以後の水車となると、時代は一気に江戸時代まで飛んでしまうため、この「最古の水車・中車説」も推測の域をでません。

金毘羅祭礼図以外の史実としては、正徳(しょうとく)2年(1713年)に出版された「和漢三才図会」があります。これは寺島良安なる医者が約30年かけて編纂した全105巻81冊にも及ぶ、江戸時代の百科事典です。その小麦の項には、「諸国みなこれあるも、讃州丸亀の産を上とする。」との記述があります。つまり今から300年前には、讃岐小麦の品質は全国的に認められていたことになります。もちろん小麦粉を使った食品には、うどんや饅頭など色々ありますが、金毘羅祭礼図が描かれた元禄年間(1688~1703年)と時代が一致しているので、うどんにも使用されたと考えて間違いないところです。

金毘羅祭礼図、正確には「金毘羅祭礼図屏風」は、1702年(元禄15年)の本社屋根吹き替えを記念し、元禄年間(1688-1703年)に描かれたと言われています。この屏風について説明する前に、屏風の基礎知識です。屏風はくねくね折れ曲がっていますが、その一つの面を「扇(せん)」といい、右端から第一扇、第二扇と数えます。そして折れ曲がった扇の数に応じて、屏風は「二曲(にきょく)」、「四曲」、「六曲」と数えます。更に左右で一組になった屏風は、「双(そう)」と数え、対になっていない片方だけの屏風は「隻(せき)」と数えます。六曲屏風が左右で対になっていれば「六曲一双(ろっきょくいっそう)」といい、向かって右側は「右隻(うせき)」、左側は「左隻(させき)」と呼びます(屏風の基礎知識より)。

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さて金毘羅祭礼図屏風は、金毘羅さんのお祭りである例大祭の様子を描いた「六曲一双」の大変立派な屏風です。つまり六枚の「扇」が一つになった「隻」が一対になっているわけです。左隻には二王門(大門)から本社に達するまでの山上の風景が、そして右隻には頭人行列や門前町など山下の有様が描かれています。そしてこの屏風には、なんと248軒の建物と1492人の人物が描かれ、元禄時代の金比羅門前町の様子や社会風俗などを知る上で貴重な史料となっています。

さてここからが本題です。この右隻の屏風には、なんと3軒のうどん店が描かれているのです。しかも3軒はそれぞれ「うどん打ち」、「切り」、「捏ね」といったうどん作りにおける異なる工程を描いているので、当時の作業工程がよく分かります。この屏風を眺めていると、当時のうどん打ちの情景が目に浮かんでくるようです。また各うどん店の軒先をよく見ると、スルメのような形をした看板が吊るされていますが、これが「招牌(しょうはい)」で、今で言ううどん店の「のれん」です。

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金比羅祭礼図のレプリカ@香川県農業試験場

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    延ばし工程

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    切る工程

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    捏ねる工程

現在、香川県では、「さぬきの夢」を100%使用したうどん店の中で、「ここのうどんなら誰にでも自信を持ってお薦めできる」とお墨付きを与えたうどん店を、「さぬきの夢・こだわり店」として認定していますが、このこだわり店には、必ずこの招牌が吊るされています。今度、うどん県に来られるときは、是非こだわり店に立ち寄り、うどんだけではなく、この招牌をじっくりとご覧になってみてください。

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