#993 青海(おうみ)神社・煙の宮(けむりのみや)
坂出市松山校区(旧松山村)は高屋町(たかやちょう)、神谷町(かんだにちょう)、青海町(おうみちょう)、大屋冨町(おおやぶちょう)の4町で構成されています。校区内には大小数多くの神社がありますが、主たる神社は、高屋町・高家神社、神谷町・神谷神社、青海町・青海神社、そして大屋冨町・厳島神社の4社となります。今回は青海神社をご紹介します。
岡山県側から瀬戸大橋を渡り、坂出北インターで降りてさぬき浜街道を高松市に向かう途中、五色台トンネルの手前右側に、青海神社はあります。高家神社が「血の宮」(ちょっと怖い)であるのに対し、こちら青海神社は「煙の宮」とも呼ばれていますが、その由来は次のようなものです。
長寛2年(1164)8月26日、悲運の中にご生涯を閉じられた崇徳天皇のお遺体は、同年9月18日戌の刻(午後8時頃)、白峯山上稚児ヵ嶽(ちごがだけ)で荼毘に付されました。その時一条の紫煙が嶽上から当地(現青海神社)に棚引き降り、その中にご尊号の文字が白く顕れ、暫くして消え失せましたが、その跡には天皇お気に入りの玉が残ったと言われています。
当時の春日大明神の祀官福家安明はこれを奇として一宇を造営し、天皇ならびに待賢門院(崇徳天皇の母)の御霊を祭祀し奉ったといわれています。これが、青海神社が「煙の宮」とよばれるゆえんです。
天皇の御所持品である御霊玉は、今もなお殿内に奉蔵されているといいます。この煙の宮創建後は、従来の春日大明神に代わり、顕仁尊(あきひとのみこと・崇徳天皇)と藤原璋子命(ふじわらのたまこ・待賢門院)が青海神社の祭神となります。当社は明治5年10月には、神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)に指定されます。難しい名前ですが、神饌(神様へのお供え物)や幣帛(神様に捧げる紙や布)の料(その費用)を供進(差し上げること)される、つまり国から諸費用が供進されるということで、一定の格式をもつ神社として認められたということです。
ところで武士、僧侶、歌人であった西行(1118-1190)は、崇徳天皇との関係が極めて密接で、とりわけ和歌を通じて天皇と近侍する機会もありました。よって崇徳天皇がご配流後の配所(流刑地)でどのように過ごされているのかについても深く関心を寄せていました。
しかし西行が讃岐の松山の地を訪れたのは、崇徳天皇が46歳で崩御された数年後、西行が55歳前後の仁安年間(1166-1169)のことです。西行来讃の目的が、弘法大師の遺跡(ゆいせき)巡礼と崇徳院の讃岐白峯御陵参拝であったことは至極当然のことです。西行は白峯の地を訪れた際、崇徳院を偲び、次の歌を詠んでいます。
「松山の 波のけしきは 変はらじを 形見に見よと 残す白峯」
松山の海の景色は変わらないが、崇徳院はすでにこの世にいない。白峯の山こそが、その形見のように残っているという無常の思いを詠んだ歌です。
西行の讃岐着船地は、松山の津ではなく、北に位置する現在の王越町の乃生(のう)港であると考えられています。「西行庵」とよばれる薬師堂でしばらく仮住いした後、「鎌の刃峠」を登り峯づたいに道を東南にとり⇒水落(みずおち)⇒柳谷(国民休暇村辺り)から六ツ林池まで降り、堤を過ぎて青海町「向(むかい)」にでます。向には荒神社、そして街道脇には「西行の笈掛石(腰掛石)」があり、これは西行が白峯陵参詣の折にここで休憩をしたと伝えられる縁りの遺跡です。
そして西行は、青海神社からは、険しい山肌を辿り、白峯御陵まで登っていったようです。この西行が踏破した青海神社から御陵までのルートは、平成15年(2003)には、「西行法師の道」として再整備され、道沿いには西行法師や崇徳院が詠んだ歌を刻んだ88基の歌碑と,石燈籠93基が設置されています。素晴らしいルートなので、ぜひ一度チャレンジしていただきたいのですが、御陵に到達するまでには830段の石段があり、登り切るには約30分を要します。御陵は、四国唯一の天皇陵として、宮内庁が常時きれいに管理しています。なお、徒歩に自信がない方は、自動車での参拝ももちろん可能です。
