#785 新しい動力源の登場①・・・さすらいの製粉大工たち

伝統や習慣に盲従していた古代社会では、小麦はすべて原始的なサドルストーンを使い、額に汗しながら手作業での粉砕がおこなわれていましたが、合理的精神に目覚めた中世になると、その多くを水力や風力に頼るようになります。そしてこの発展の過程において私たちの思考範囲はぐっと広がり、それは私達の理論的な考え方を深めるだけでなく、日々の生活様式にも影響を及ぼすようになってきます。その結果、製粉産業においては、科学的な実績に裏付けされた素晴らしい新技術が生まれ、人々はそれまでの単調な肉体労働から解放されました。

機械は単に手先の器用さだけで作られるものではないし、また単純に旧型を改良しただけで良いものができるとも限りません。旧態依然の方法でサドルストーンを作り続けるのは簡単でしたが、それを使うには力強い肉体や長い手といった、身体上の制約が必要でした。しかし機械の登場によって、私達は、身体の動き、体型、大きさなどといった肉体上の制約からは解放されました。先人達は車輪、軸、歯車、そして石臼を複雑に組み合わせて水車や風車を作り上げました、その開発過程において人間の身体には参考となる部分は全くありません。そしてその機械を操作するには基本的に人手は不要で、強いていえば離れたところでのスイッチの入り切り、そして動きを調整するために多少の手間暇がかかったくらいでした。

こういった機械を作り上げるには、人々は自然界を支配する抽象的な原理原則を正確に解釈し、合理的に行動しなければなりません。ただこの合理的方式への転換は、牛歩のように遅く、新しい知識の導入に際しては、決まって古い慣習が妨げとなりました。初期の水車による石臼の回転数が、手回しのそれと同程度に設定された理由は、きっとそのような背景が影響していると推察されます。つまり手回しの石臼を使っていた時代、経験則によって得られた最適な回転数が、新しい水車の時代になってもそのまま継承されたのです。しかし新しい体験はそれ独自の価値観を見いだすように、動力機械がより複雑にそして精密になるにつれて、新しい制御方法が考案されるのは自然なことです。それらは寸法、計算、割合、比率といった数学の言葉で表現され、それ以後の製粉技師の仕事に深く関わることになります。そしてこれらの方法が、来るべき新時代における、更に合理的な規範の基礎となりました。

製粉大工達は永い間、必要な知識を本の中に求めることはできませんでした。その理由は、彼らの多くは読み書きができないからで、その知識は専ら伝承と経験則だけが頼りでした。苦労の末、折角見つけた原理原則も一般化されることはなく、よってそれが広く応用されることは滅多にありませんでした。つまり技術的な問題が起こる度に、それぞれ個別に対応しなければならず、現場の技術者にとっては、本の中に情報を求めるといった考えは思い浮かびませんでした。これを示す良い例があります。イギリス議会は1732年、トーマス・ロンベに対し、絹を縒る機械をイギリスに輸入した功績で、14,000ポンドを授与しました。ところが実はこの彼が持ち込んだ機械とそっくりのものがゾンカの本(1607年刊)の中に描かれていて、その本は少なくとも1620年以降ずっと、オックスフォード大学のボードリアン図書館で開架されていたのです。

一方、現場では相変わらずかなりの量の知識が蓄積され続けました。棟梁は自分が編みだした技術を弟子たちに伝授すると、それは弟子達が他で製粉所を建てる度に広まっていきました。初期の製粉大工は、中世の棟梁たちと同様、いつも各地を旅して廻っていました。かれらは仕事があるところに赴き、そこでの仕事が片付くと、また新たな仕事を求め、放浪生活を繰り返していました。このように彼らは観察によって新しい知識を吸収し、旅をしながらそれを各地に広めていったのです。