#741 サドルストーンから石臼へ➆・・・ポンペイの遺跡

ポンペイはナポリ近くにあった古代都市ですが、西暦79年に起きたベスビオ山(Vesuvius)の噴火により埋没します。その後、このポンペイの街からは、約20軒のパン屋がその製粉機や焼き窯とともに発掘されました。これは人口1,000人当り1軒に相当するのに対し、当時のローマでは2000人に1軒でした。ローマ時代も後になると、ラティーニ兄弟が毎日1,000ブッシェル(27,215kg)の小麦粉を加工し、10万~15万個のパンを焼いたという記録もあります。これは今日の規模でいっても、毎日5万ポンド以上の小麦粉を使用する大企業に相当します。

ポンペイ遺跡から発掘されたかまどから判断するに、アワーグラスミルで挽いた小麦粉は品質的には全く問題なかったようです。これらのかまどは小さく、原始的な方法で火を起こした後、その火を掻き出し、パン生地を入れます。熱気を通す管も設置したタイプのかまどもありましたが、いずれにしてもパンを焼く度に火を起こす必要がありました。水車の発明はポンペイ滅亡よりずっと以前なので、水車を使った能力の大きな製粉機をつくろうと思えばできた筈ですが、それがなかった理由はかまどの性能がまだそこまで追いついていなかったからかもしれません。

次の画像は、ローマのポルタマッジョーレ(Porta Maggiore)にあるウェルギリウス・エウリュサケスの墓石に描かれている一場面です。彼は奴隷でしたが、後に有名な粉屋かつパン屋となりました。左が捏ねる機械で、右はかまどから長いしゃもじを使ってパンを取り出しているところです。ポンペイのパン屋さんでもこうやってパンを焼いていたに違いありません。

製粉用の小麦は、原始的な方法で栽培されていました。クセノフォンやラオフラストスが推奨していた方法は、紀元前8世紀にヘシオドスが著した「仕事と日」の中で規定されている方法とほとんど変わりません。実際メソポタミアやエジプトのように好条件に恵まれているところは除き、古代社会ではほとんど全てで似たような方法で耕作され、それは後にカルタゴやローマで改良されるまで続けられました。

耕作の手順は主として降水量の少ない地域、そして冬季の作業について詳述されています。農地は一般に隔年毎に休耕させ、休耕地も翌年の播種に備え、秋、真冬、春、真夏の季節において3~4回は掘り返すよう推奨されています。この習慣は古くから実践されていて、ホメロスの「イーリアス」に登場するアキレスの盾にも「3度耕す」ことが言及されています。プライニーによるとエトルリア人は稀に9回も耕したことがあったようです。いずれにせよ、11月初旬、牡牛座にあるプレアデスが沈むと、最後の耕起を行い、その後種を播き、その上から鍬で土を戻します。ギリシアでは春に播く「春小麦」はほとんどなく、秋に播いた「冬小麦」は翌年の4月に収穫されました。

ローマ人達は、元々あった地中海式農業にかなり手を加え改善しました。彼らは放牧により土壌に肥やしを与えることで、堆肥をつくり、また草をそのまま土と一緒に掘り返すことで緑肥にしました。そして輪作や実生(みしょう)選択の実践など、細部において非常に注意深く改善を実施したことが、彼らの農業成功の秘訣です。ただ古代ギリシアとローマにおいてはどちらも穀物供給能力は充分ではなく、アテネではその繁栄期においても、需要の3/4は輸入に頼っていました。アテネ人にとっての主要穀物は大麦でしたが、これは好みというよりも大麦の方が安価だったからに過ぎません。しかし一方ではかなり数量のエンマー小麦も消費されていたし、デュラム小麦もそこそこ、そして「クラブ小麦」や「普通小麦」といったパン用小麦も一部では消費されていたことがわかっています。