#727 古代オリエントにおける麦作③・・・メソポタミアの過酷な自然環境

チグリス川やユーフラテス川は、穏やかな河川ではありません。5月になると氾濫し、6月には元の水位に戻りますが、夏の厳しい日差しが照りつけます。7月になると水でも打たないと、地面はからからに乾燥してしまいます。そこでメソポタミアの人達は、無数に入り組んだ水路を張り巡らせ、土地に水分を供給しました。そしてこの水路から苦労して水をくみ上げ、僅か2、3エーカーほどの小さな畑に灌漑しました。

いつ起こるかわからない洪水や飢饉、また絶えることない不測の変化に悩まされ続けながら、水路を作り、それを維持し、畑に水をくみ上げるには、それこそ涙ぐましい努力が必要でした。無数にある水路は、至る所で簡単に詰まり、厄介なことに、その沈泥物は有害なアルカリ成分です。ナイル川では、毎年谷間が浸食され、その流域では肥沃な土壌が堆積されるのに対し、メソポタミアでは土壌に含まれている塩分をこしだすので、それが水中の化学的平衡を破壊してしまいます。よってこのような状況が改善されない限り、メソポタミアでは沈泥によって土地が使いものになりません。

メソポタミアは西暦1258年にモンゴル族による侵略後、衰退しましたが、その原因は灌漑設備が破壊されたからではなく、それを維持管理することを忘れていたからです。そしてそれ以後メソポタミアは、かつての豊かさと繁栄を取り戻すことはありません。

当時エジプトやメソポタミアに暮らしていた人達の考え方や生活様式は、彼らの生活環境がそのまま反映されていました。川の振る舞いや水の流れの変化、肥沃な土壌ができるかどうか、植物や家畜の生育習性、そして自然環境の変化などの予測は困難で、人間の力ではどうすることもできません。よって全てを人手や家畜に頼っていた当時の社会では、この気まぐれで強大な自然の力に対し、何とかうまくやっていくしか方法がありませんでした。現在、私たちは自然現象を物理法則の原理原則によって正しく理解できますが、古代の人々は彼ら独自の自然観でしか解釈できず、よってそれに従うしかないのです。

そのうちに既存の神々だけでは足りなくなり、新しく奉るようになった神々も増え、その結果神々は自然界の至る所に存在するようになりました。神々は一見強くて賢く、常に人々をはらはらさせていましたが、実際のところは、我々と同じで、全知全能ではありません。彼らはいつも宥(なだ)めたり賺(すか)したりして調子をとらなければなりません。エジプトやメソポタミアにおける宗教は、本質的には帰依する存在で、人々の生活の隅々まで浸透し、影響を及ぼしていました。そして願望が大きくなればなるほど、儀式もより派手になっていきました。

当時は穀物生産とその加工が、生活にとっての最優先事項であると同時に、大きな謎に包まれていました。よって両地域とも農業の儀式とその耕作技術とは、切り離して考えることはできなくなりました。そして宗教は地上と天国との関係を秩序よく維持するための、現実的な手段となります。エジプトでは、この秩序は確固たる地位を築いていたので、それ故永い間変わることなく存続することができました。一方メソポタミアでは、自然条件が全く異なり、そのような穏やかな永続性は維持できませんでした。つまりどちらの文明も人間と自然の関連性を通して、似たような考えで支配されていたにも拘わらず、環境の違いこそが、両者を徹底的に離ればなれにさせてしまった原因です。

メソポタミアでは、川の振る舞いは気まぐれで、しばしば壊滅的な被害をもたらしました。そこでは世の中には規則性はなく偶然によってのみ支配されているように思えます。よって将来のことは何もわからず、建造物も残しませんでした。結果、メソポタミア文明というのは、砂上に書かれただけで、後世まで残りませんでした。焼き粘土に書かれた記述や伝言などは数多く残されていますが、日常生活に関連した絵とか工芸品といったものは驚く程僅少です。残っているものといえば、プラウ、搗臼、サドルストーン、それに紀元前9世紀、アッシリアのシャルマネセル3世のものとされる台所の様子を描いたレリーフくらいです(下図参照)。レリーフの左下は、サドルストーンで粉を挽いている場面、右下には、積み上げられたパンがみえます。