#721 日本の麵の歴史⑤・・・そば切りの登場

【⑫そば切り】
ソバ粉を原料とする料理には「そばがき」、練って餅状にまとめて焼いた「そば餅」の類、ソバ粉をゆるく溶いて、ほうろくなどで焼いた「うすやき」などがありますが、これらは回転式石臼が農村に出回ってから後に普及した食べ方でしょう。それ以前には、「そば飯」や「そば米」という粒食法がありました。

天正2年(1574)に長野県木曾郡大桑村の定勝寺の仏殿と奥縁壁の修復工事がなされた折、その竣工祝いの寄進者一覧のなかに、「振舞ソバキリ 金栄」との記載がありました。これにより少なくともこの時点において「そば切り」が存在した事実が、明らかとなりました。

一方、状況証拠で考えるなら更に古い室町時代の記録が存在します。お公家さんである山科家の荘園を管理するマネージャー役にあたる家礼たちの書き残した日記・「山科家礼記」の文明12年(1480)7月23日の条に、次のくだりがあります。「一、西林庵、棰壱・そは一いかき給ひ候ふなり。各よひて賞翫(しょうがん)なり」。「棰(たるき)」⇒「樽」、よって「棰壱」は酒樽ひとつと解釈できます。また「いかき」は「ざる」なので、「酒一樽と、そばをざるに盛ったものひとつをいただいた」と解釈できます。更に同じ記録の文明4年(1472)2月12日の条には、「うどんニて大酒あり」とあります。また山科言継(ときつぐ)の日記・「言継卿記(ときつぐきょうき)」の天文17年(1584)正月29日の条には「うどんにて大酒に及ぶ」とあるように、当時から麵をさかなにして酒を飲む風習がありました。

ざる盛りにして供したのは、そばがきではなく、そば切りであろうと、推測できます。というのは蒸籠索麵が現れるのもこの時代のことです。よってそうめんを熱蒸にして食べたように、そば切りもセイロで蒸して、ざるそばのようにして供したと推定できます。

「料理物語」には、そばの汁は、「汁はうどん同前」とあり、当時はうどんとそばは同じ汁を使用しました。そして「汁はにぬき又たれみそよし」と続きます。「にぬき」は味噌に水を加えてもみたて、袋にいれて液体を滲出させた「なまだれ」に、カツオを入れて煎じてから漉したもの。つまり味噌味のそばつゆです。これにダイコンの汁を加えてもよく、薬味として、「はながつほ、おろし、あさつきの類」、「からし、わさび」もよいとされます。

江戸時代にそば切りを売る店では、17世紀の終わり頃まで、「蒸しそば切り」を食べさせていましたが、うどんはゆでただけで、蒸さずに食べています。盛りそば、ざるそばがセイロの上にのせられるのは、そばを蒸していた頃の名残をとどめるものでしょう。「料理物語」のそばは、つなぎ粉を使用しません。コムギ粉を入れてそばを打つのは18世紀初頭にあたる元禄末か、享保年間だとされます。そしてコムギ粉をつなぎにしたそばが主流になる頃から、蒸しそば切りが姿を消します。コムギ粉のつなぎなしでは、煮崩れしやすかったから、さっとゆでて、あとは蒸していたのかも知れません。

17世紀には麵類を売る店は「うどん・そば切り」という看板があり、コムギ粉からつくったうどんの方が大勢を占めましたが、18世紀になると江戸では逆転して、そばが主流となり、そば屋がうどんを食べさせることになります。もともとソバは「ソバくらいしかできない」土地の痩せた場所で植えられ、救荒食として栽培されたもので、コムギに比べると、はるかに格の低い作物でしたが、それを趣味性の高い料理にまで発展させたのは、江戸の外食文化でした。

【気づいた点】
そばは最初、粒のまま調理されていました。そば切りが登場するのは、間違いのないところで1574年、そして状況証拠であれば1480年まで遡ることができます。うどんは蒸さずにゆでただけでしたが、そばは「蒸しそば切り」として食されていました。今でもそばが、セイロにのってでてくるのは、これが起源というのは、説得力があります。そしてそばにコムギ粉をつなぎとしていれる18世紀になると、蒸しそば切りは、姿を消します。「コムギ粉のつなぎなしでは、煮崩れしやすいので、さっとゆでて蒸した」と聞くと納得します。

ところでそばとうどんの呼び方ですが、関西少なくとも香川県では、必ず「うどん・そば」の順番ですが、関東では「そば・うどん」になります。石毛先生によると江戸でも昔は「うどん・そば切り」の順番でしたが、18世紀になると逆転して、そばが主流になり「そば・うどん」になったようです。うどん県の住人としては、誠に残念です。

これで石毛先生の、「麵の文化史」から「麵のふるさと中国」と「日本の麵の歴史」の独断でのまとめが終了しました。麺の歴史の流れが理解でき、大変参考になりました。