#992 松山の津③
それでは実際に「松山の津」がどのような立地条件にあったのかを、地図で確認します。地図左下には雄山(おんやま)と雌山(めんやま)が南北に比翼を連ねています。両山の東側が旧松山郷、西側が旧林田郷にあたります。当時の海岸線は、地図上では斜線で示しています(現在はすべて陸地化しています)。かつて松山の地が瀬戸の入江として波に洗われていた時代、この両山は外洋から吹き寄せる風波を遮る、天然の防波堤あるいは岬の役目を果たしていました。現在の東山から両山を眺めた画像をご覧いただくと、その地形的特長がよく理解できます。
次に北方へ目を転じると、土嶽(前山)や尖山(とぎり・乃生岬)の山波が重畳として連なり、入江を深く抱き込んでいることがわかります。これらの山波もまた、巨大な屏風のように風雨を遮る役割を果たしていました。一方、東方は北峯・東山・白峯山をはじめ急峻な峯々が迫り、青海川の入江を袋状に包み込んでいます。

足下の雄山山裾一帯は「川西」とよばれ、ここが「松山の津」であったと推定されています(画像参照)。川西は、入江の奥部に位置し、半円形に湾曲した、懐の深いU字形の地形を形成しています。すなわち川西は、三方を山に囲まれた入江の、最も奥深い地点に位置しているのです。これらの自然的立地条件を総合的に考証すると、この川西一帯こそが、かつての松山の津であった可能性が最も高い場所であると考えられます。
築港技法が未発達であった古代において、港に求められる第一の条件は、波風を避けることのできる自然的環境が整っていることでした。そのためには、島陰や入江など、適当な水深を保つ船がかり場が存在し、かつ外洋から進入可能な航路帯が確保されていることが重要な要素となります。
ここで再度、地図をご覧ください。矢印は、干潮時における青海川の川筋を想定した略線です(斜線部分は、当時の海岸線)。急峻な奥谷を源とする青海川は、青海の平坦部を蛇行しながら明神川と合流し、下新開付近から外海に注いでいたと考えられます。この想定される川筋は、現在の青海川・明神川の流路とほぼ一致しています。
ただし、現在の蚊渕(かぶち)には、「古川筋」という地名が残されている点を考慮すると、かつての青海川の流路は、さらに南方寄りの雄山山麓に達していた可能性が高いと推測されます。したがって、両河川の合流点は雌山と雄山の中間付近であったと想定するのが妥当でしょう。
改めて地図を見渡すと、川西の港、すなわち松山の津は、青海川・明神川の河口を内陸へ遡った合流点付近に位置し、さらに雄山という天然の防波堤に抱かれたU字形地形の付け根部分にあったことが理解できます。以上に述べた自然的条件は、港としての基本的要件を余すところなく満たしており、松山の津を特定するうえでの重要な証拠となります。
雌山と雄山とが肩を接する鞍部に形成された坂道は、「坂折(さこおり)」とよばれ、ほかに「越坂」「恋坂」「妻恋坂」とも称されてきました。ここは松山から西方の林田郷へ通ずる、古くからの峠道です。かつて舒明天皇が伊豫の「湯の宮(道後温泉)」から都へ戻る途上、網の浦に暫時船を留めたことが「日本書紀」に記されています。一方、「万葉集」には、当時舒明天皇に随行していた軍王が、網の浦で海女娘子(あまおとめ)たちが焼く藻塩の煙を眺めつつ、都に残した妻を恋い慕う歌が収められています。そしてこの歌を詠んだ場所が「坂折峠」であったと伝えられています。
恋坂にまつわる軍王の物語は、松山の津がかつて雄山山麓に存在したことを裏付ける数少ない伝承的証拠のひとつといえます。現在、この峠付近には坂出市から高松市に抜ける通称「さぬき浜街道」が通り、交通量も多くなっていますが、坂折峠そのものは、この街道のすぐ南側に今もなお残されています。

