#987 高家(たかや)神社

弊社のある香川県坂出市高屋町(たかやちょう)には、高家(たかや)神社があります。ややこしいのは町名と神社名が固有名詞同士の同音異義となっている点です。高屋町民にとっての氏神様は、当然高家神社になりますが、この事実に気づいていない氏子も多くいると思います。さらにややこしいのは、香川県観音寺市高屋町には、高屋神社があり、こちらは町名と同名の神社です。そして高屋神社は、稲積山(いなづみやま)山頂にあり、鳥居越しに瀬戸内海と観音寺市街を一望できる「天空の鳥居」として有名です。

ここでは、私たちの氏神様でもある高家神社をご紹介します。知名度では高屋神社に一歩譲るも、こちら(高家神社)は歴史的にも古く由緒正しい神社です。肇祀(ちょうし)は古く、三代実録に「貞観(じょうがん)九年(867)五月十七日乙卯授讃岐国正六位上高家神從五位下」とあるのは、高家神社のこととされています。ちなみに三代実録とは、平安時代に編纂された歴史書で、天安二年(858)~仁和三年(887)の約30年間の記録です。この記述によると、「867年5月17日、讃岐国にある高家神という神に対し、それまでの正六位上から、従五位下の神階が授与された」とあり、ここに登場する神社が高家神社ということです。その昔、この辺りには高家首(たかやのおびと)(高家というこの地方を治めていた有力な一族)が住んでいて、祖先である天道根命(あまのみちねのみこと)を祀って、自分たちの氏神としたのが始まりとされています。

また高家神社では、崇徳上皇も祀っていますが、その経緯は以下の通りです。保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方が衝突します(保元の乱)。政変に敗れた崇徳上皇は讃岐に配流(島流し)されます。この朝廷の内部抗争の解決には武士が存在感を発揮し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなったと言われています。

長寛二年(1164年)八月二十六日、讃岐に配流されていた崇徳上皇は、天皇寺において46歳で崩御されます。同年九月十六日、葬儀を執り行うため、天皇寺から白峯へ御遺体を運ぶ途中、突然空がかき曇り、激しい風雨と雷鳴が起こります。そのため一行は、途中の高屋町阿気に立ち寄り、御棺をしばらく安置。このとき、御棺を休めた台石から血が流れ出たため、村人たちは大いにこれを畏れ敬ったといわれています。葬送が終わった後、人々は崇徳上皇の御神霊を当社に迎えて、他の神々とともに相殿に祀り、あわせてその台石も社内に移して大切に祀っています。このような経緯もあり、高家神社は別名「崇徳上皇血の宮」神社とも称されています。

御棺台石(ごかんだいいし)

ところで地方に陵墓がある天皇・上皇としては、崇徳上皇以外には、後鳥羽上皇(島根県隠岐の島町)くらいしかありません。承久(じょうきゅう)三年(1221年)に、貴族政権を率いる後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に対立しますが、鎌倉幕府が勝利を飾り、敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流されます(承久の乱)。つまり「地方に墓がある天皇(上皇)」というのは、政治闘争に敗れ、配流され、不遇の最期を迎えたということになります。

前後しますが、保元の乱に敗れた崇徳上皇は、最初に「松山の津」に着船したと伝えられています。この「松山の津」については,石碑などの手がかりは残っていませんが、港の自然的な立地条件などを検証した結果,雄山北東の麓を松山の津と推定しています(坂出市高屋町)。崇徳上皇は、次のような句を詠みます。「啼けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」。つまりホトトギスが鳴く声を聞くたびに、都のことが恋しく思われてならない。だからこの里を通り過ぎて、山のほうへ行ってくれ、っと。都が恋しくてたまらなかった上皇の胸中が痛いほどわかります。