#960 「うどん以上のことはできません(三好 修著)」
日の出製麺所・昭和5年創業。創業者・三好秀三郎氏が昭和26年(1951)に59歳で亡くなった後は、当時若干17歳の清氏が2代目となります。清氏が高校に通い始めた当初は、昼間は学校、夜はうどん製造というパターンでしたが、家業が忙しくなると夜間部へ移り、秀三郎氏亡き後は、高校を辞め家業に専念。その後、途中で3代目修氏に交替しましたが、平成30年(2018)に85歳で亡くなるまで70年近くにわたりさぬきうどんに関わってきました(#176)。
製麺所とは小麦粉、塩、水からゆでうどんを製造し、それを企業の社員食堂、病院や施設の食堂、スーパー、小売店などに卸すのが生業です。昭和の時代には、うどん県に数百軒あった製麺所も時代とともに淘汰され、直近では10軒以下と激減しました。修氏によると激減の一番の理由は冷凍うどんの登場ですが、製造・包装・流通の各段階における技術革新により、大手のゆでめん工場で製造された廉価なゆでうどんが流通するようになったのも大きな理由です。
日の出製麺所の仕事は地味でしかも年中無休。GW、お盆はもちろん年末は徹夜が続きます。当然ですが、若い頃の修氏は年中無休の仕事には強い抵抗がありました。しかしうどん職人を続けてきたお陰で現在があるわけで、今ではうどん職人になって良かったと仰います。「こんなうどんが作りたいと考え、それを自分の手で作り販売し、それを美味しいといっていただける」幸せを感じ、「うどん以上のことはできません」が口癖です。
製麺所のうどんを語るには、「朝練り」と「宵練り」の説明が不可欠です。小麦粉と塩水を練り合わせて丸めた生地を「団子」といい、前日に仕込んだ団子は宵練り、そして当日の団子を朝練りといいます。そして製麺所では宵練りの団子を、うどん店では朝練りの団子を使用するのが一般的です。宵練りの団子は、長時間寝かせることで脱気が進み、その結果「しっかり感」が増加するため製造翌日でも美味しく召し上がっていただけます。一方、朝練りの空気を含んだ団子は、ふっくらと茹で上がるので、製麺所のうどんよりもやわらかい食感が特徴です。
日の出製麺所に転機が訪れるのは、昭和63年(1988)の瀬戸大橋の開通です。これは道路と鉄道が通る鉄道道路併用橋としては、当時世界最長。開通により四国は本州と初めて陸続きとなりました。これを記念して架橋博覧会が大々的に開催され、修氏はこのとき人生初めてのうどんの実演販売を与島(よしま)PAにおいて実践します。この架橋博によりさぬきうどんブームに火がつき、日の出製麺所はその後「お土産うどん」にも注力するようになります。
本州と陸続きになったことで、香川のローカルなうどん店を巡るうどんツアー客が飛躍的に増えました。そうこうするうちに日の出製麺所にも「ここでうどんを食べさせてもらえませんか?」という観光客が1日に2~3組は訪れるようになります。少しの紆余曲折の後、スーパー向けの追加の茹で麺をゆでるのに合わせて昼間1時間だけの食堂営業を始めたのが、平成13年(2001)12月のことでした。これは製麺所の釜の火を落とす最後の1時間だけの営業という理由ありうどん店です。
さらに食堂営業を始めて1年足らずの平成14年(2002)8月には、初めて催事出店をおこない、平成17年(2005)からはその出店頻度が加速します。催事出店は、体力的にきついだけでなく、地元坂出とは条件が異なるため、如何に地元と同じうどんを提供できるかに腐心します。
うどんは出汁やトッピングにより様々なバリエーションが可能ですが、トッピングが前面にですぎるとうどん本来の風味がぼやけてしまいます。日の出製麺所のうどんはあくまでも「うどん」が主役です。そこで修氏イチ推しのトッピングは、海老のすり身を練って揚げた「えび天」となります。どの業界も集約化が進む中、製麺業も例外ではありませんが、日の出製麺所は「おみやげうどん」や「催事出店」により新規需要を掘り起こし成長を続けています。