#991 松山の津②
「松山の津」は、歴史文献にも数多く登場します。ここでは、主だったものを時系列に沿って紹介します。注目すべきは「山家集」において、既に「松山」という地名が登場している事実です。よって当地の松山の起源は、少なくとも900年近くは遡ることが可能です。一方、松山市については、慶長8年(1603年)戦国武将加藤嘉明が築いた城地にちなみ命名したとあります(松山市HP)。
【①日本書紀・万葉集】
639年、舒明(じょめい)天皇が伊豫の湯の宮(道後温泉)から都へ帰還される途上、網の浦(香川県宇多津町)に暫時船留まりされたことが、『日本書紀』に記されています。一方、『万葉集』には、当時天皇に従っていた飛鳥時代の歌人・軍王(いくさのおおきみ)が、網の浦の海人娘子(あまおとめ)らの焼く藻塩の煙に心を焦がしつつ、都に残した妻を偲んだ歌が、素朴な情熱とともに書き記されています。そしてこの歌を詠んだ場所が、松山の「坂折峠(さこおり)」であったと伝えられています(後述)。すなわち、舒明天皇が伊豫から都へご還幸の際に船寄せされた地こそ、松山の津であったと考えられています(ただし、当時はまだ「松山」という地名は登場していません)。
【②山家集】
西行が讃岐への旅に出たのは、1167年(仁安2年)あるいは翌年の神無月とされています。年齢は50歳前後でした。『山家集』には、次のような歌が収められています。
「讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無かりければ 松山の波に流れて来し舟の やがて空しく成りにける哉(かな)」
これは、西行が讃岐に詣で、「松山の津」と呼ばれる場所で、かつて崇徳院が滞在されたという足跡を探したものの、何ひとつ痕跡を見出せなかったことを詠んだ歌です。松山の波に流れ着いた一艘の舟が、誰にも顧みられぬまま朽ちていく――その舟に崇徳院の姿を重ねています。ここで、「松山の津」という地名が登場している事実はきわめて重要です。つまり「松山」という地名は850年以上昔に既に定着していたことになります。
【③新葉集】
元弘の乱(1331~1333)は、後醍醐天皇の勢力と鎌倉幕府・北条得宗家との間で行われた全国的内乱です。この動乱の中で讃岐に配流された宗良(むねよし)親王によって撰せられた『新葉集』巻七・離別の部には、次の歌が収められています。
「讃岐の国松山という所にゆきつきて月日を送り侍りしに入道大納言の許より、 松山は心づくしにありとても 名をのみききて見ぬぞ悲しき、 と申し侍りしに返事(かえりごと)に 思いやる心尽しもかひなきに 人まつ松とよしやきかれし」
宗良親王は、讃岐国松山に滞在中、入道大納言から「松山は“心尽くし”の地と聞くが、名ばかりで実際に見ることができないのが悲しい」という歌を受け取り、それに対し、「思いを尽くしても報われぬこの身では、“人を待つ松”と好きなように言われるのも致し方ない」と返しています。
さらに、文献に直接は現れないものの、次のような有力な推定も成り立ちます。平安時代を代表する学者・詩人であり政治家でもあった菅原道真(すがわらのみちざね)は、仁和2年(886)から寛平2年(890)までの四年間、讃岐国司の長官である讃岐守として在任しました。当時の国司庁跡は現在の坂出市府中町にあり、これは松山の津から南へわずか数キロのところです。この地理的関係から、道真もまた松山の津に上陸したと考えるのが自然です。
さらに保元元年(1156)、崇徳上皇が讃岐へ配流された折(ご還幸の砌〈みぎり〉)、世の不正義とみずからの不運に憤り嘆くご慷慨の歩みを始められた、その第一歩もまた、松山の津であったに違いありません。このように松山の津は、歴史の節目節目において重要な役割を果たしてきた港であったのです。
