#715 麵の文化史・麵のふるさと中国④・・・南宋代に麺文化が完成

【⑨飲食店の繁栄】
宋代(960-1279)になると、湯餅という言葉が使用されなくなり、麵条を使用した料理が、餅のカテゴリーから独立します。そして糸鶏麵(しけいめん)、三鮮麵(さんせんめん)、炒鱔麵(しょうぜんめん)のように、麵条を使用した料理は、具材や料理法をあらわす名称のあとに麵という文字をつけて表現されるようになります。そして宋代以後は、麵条を使用した料理名は、○○麵と表記されるのが標準となります。また「餅」という言葉は、現在の焼餅、月餅などのように扁円形をしたコムギ粉食品で、火であぶったり、焼いたり、また蒸して調理したものを指すようになります。

宋代は、汴京(べんけい)に都があった北宋(960-1127)と、北宋が金に敗れて南方に移動し、元に併合されるまので南宋(1127-1279)との、2つの時代に分かれます。北宋が敗れ、南宋に逃れた孟元老(もうげんろう)は、かつての首都の繁栄ぶりを偲んで、『東京夢華録(とうけいむかろく)』という本を著しました。東京とは、西の洛陽を西京といったのに対し、汴京をよんだ名前です。この本には食べ物屋の繁盛ぶりについての記述が多く、たとえば、汴京は午前4時頃から深夜まで営業する飲食店やその他の店で賑わっていた、とあります。また商売人の家では、食事ごとにそういう飲食店から料理を取って間に合わせ、家には惣菜を用意しないものが多い、とも書かれています。

北方料理の店、南方料理の店、四川料理の店、油餅店や胡餅店などの餅店といったように、専門化した食べ物屋もありました。世界中で外食のための施設が一番早く発達したのは中国ですが、その中国で外食が本格的に発展したのは、宋代と考えて間違いないようです。注目すべきは、「旧くは只匙を用い、今は皆、筋を使う」との記述です。「筋」とは箸のこと、つまり北宋の時代には、スープ料理に入れるコムギ粉食品が、塊状に成形された麵片類よりも、麵条を使うことが多くなったので、箸で食べるようになったと推測できます。匙だけで麵条を食べることはできないからです。

『清明上河図(せいめいじょうがず)』は、清明節の日の汴京の賑わいを、絵巻物に仕立てたものですが、そこには大通りや路地の両側に店が並び、買い物をしたり、飲食をしたりしている人々の雑踏ぶりが描かれています。この開放的な商業都市における飲食店の発達はめざましく、盛り場には、茶店、居酒屋、料理屋が軒を連ねていました。北宋がほろび、南宋の時代になると、北方で発達した麵食文化が南方に進出します。南宋にはコメを原料とした麵ができ、そうめんの製法も存在しました。つまり南宋代は中国の麵の主要なものが出揃い、麵文化がほぼ完成した時代だったと言えます。

【全体のまとめ】
石毛直道先生のお話は、大変勉強になりましたので、簡単にまとめてみました。
1.粉食文化(コムギ栽培技術+回転式石臼のセット)は、西方よりシルクロードを通り、戦国時代の中国に伝わり、漢代になってから普及した。
2.日本語の餅(もち)は、モチゴメを臼でついた食品のこと。一方、古代中国では、コムギ粉食品すべてを餅(ビン)と呼び、現在では扁円形をしたコムギ粉食品を指す。
3.後漢(25-220)の終わり頃の字書「釈名(しゃくみょう)」には、蒸餅、焼餅、湯餅といった言葉が登場するので、2世紀初頭には、コムギ粉食品の様々な調理方法が、発達していたことがわかる。
4.青木正児先生によると、中国語の餛飩が「うどん」の語源。
5.最古の麺は、「斉民要術(530-550年頃に成立)」に登場する「水引餅(すいいんべい)」。
6.「切り麵」が登場するのは、唐代(618-907)になってから。不托(ふたく)掌托(しょうたく)と対比される言葉。「托」とは「手でものをおす」という意味で、こねたコムギ粉を手のひらで押して成形することを掌托という。一方、不托は手のひらを使わないコムギ粉食品つくりの技術のことなので、おそらく麵棒を使用して生地を延ばす方だと推測される。
7.宋代(960-1279)になると、「湯餅」は使用されなくなり、「麵条」を使用した料理が、「餅」のカテゴリーから独立する。そして麵条を使用した料理名は、○○麵と表記され、「餅」という言葉は、現在と同じ扁円形をしたコムギ粉食品を指すようになる。
8.「東京夢華録」には、北宋(960-1279)の都、汴京での食べ物屋の繁栄ぶりが記述されている。世界中で外食施設が一番早く発達したのは中国で、そこで特に早かったのが、宋代である。注目すべきは、「旧くは只匙を用い、今は皆、筋を使う」との記述。「筋」とは箸のこと、つまり北宋の時代には、スープ料理に入れるコムギ粉食品が、塊状に成形された麵片類よりも、麵条を使うことが多くなったので、箸で食べるようになったと推測できる。「清明上河図」には、清明節の日の汴京の賑わいぶりが描かれている。