#676 オリバー・エバンス⑤・・・フランス方式

実際、エバンスが試した方法は、有効な製粉方法で、フランスでは少なくとも16世紀以降様々な試験的な粉砕方法が試されました。所謂「フランス方式(French system)」と呼ばれる方式は、石臼と篩機がセットになったものがいくつも並んでいて、ある篩機のオーバーが次の石臼のストックとして使用される仕組みになっています。最初の石臼では、上臼と下臼の間隙が標準よりもかなり広く空いていて、次の石臼からはそれが徐々に狭くなっていきます。そしてそれらはエバンスが推奨していた回転速度の更に半分の、50~60rpmで回転します。食料が不足していた時期、フランスの粉屋は小麦を全部で7段階にも分けて挽いていました。そしてある者は3種類の上級粉を含む5種類の小麦粉を、そしてふすまも大小異なる3種類を取り分けたといいます。

ベックマンによるとフランス方式導入後の小麦粉歩留りは77~81%と、それ以前の33~38%から劇的に向上しています。下図はフランス方式を単純に図式化したものです。篩分け工程は、一部の製粉場では石臼と連動していましたが、一般には手動式が多かったようです。フランス方式から得られた小麦粉と従来方式のそれとは、その採り口が異なるので、単純に比較することはできません。しかしフランスの粉屋は、所謂「白い小麦粉」と言われるものを3種類採り分け、その歩留り合計は66%以上で、しかも全体の50%以上は最上級粉であったということです。

フランス方式の一番重要な点は、個々の作業工程は単純な石臼による粉砕と篩い分け作業であるにも拘わらず、それまでは大小不揃いのストックが一緒くたになって処理されていたものを、できるだけ粒度と性質が同じストックを一まとめにして処理することで、素晴らしい結果が得られるようになったことです。流石のエバンスもこのような方法は、思いつかなかったようです。実際彼はミドリングスの処理方法として、小麦に混ぜて石臼で再び挽くといったような、同じ装置を異なる目的のために入念に何度も使用しました。フランス方式はいつも故障せずに完璧に稼働していたわけではありませんが、フランス人にとっては製粉技術そのものの改善よりも、より売れる小麦粉の歩留りを上げる現実的な問題に関心があったようです。

エバンスは彼の製粉方法が実際の現場で充分に活用されるために、粉屋には科学技術的な資質と、様々な条件に順応できる適応力を求めました。また当時は、満足な工具も揃っていなかったので、エバンスが開発した機械類の調整にあたっては細心の注意が必要でした。機械が順調に稼働しているときは、全然手を加える必要がないので、誰でも操作することができたけれど、充分に満足できる結果を得るためには、精巧かつ豊富な技術が必要でした。つまりエバンスの方式を充分に享受するためには、粉屋には技術者と科学者両方の資質が求められたわけですが、国内外においてそういった人材は見つけるのは容易ではありません。当時、ボルチモアやウィルミントンにおいては既に大規模な商業製粉施設が稼働していましたが、1790年時点で既にエバンス方式を実践していたエリコットのような人材はほとんどいませんでした。

その後しばらくしてロバート・レスリーがエバンスの方法を普及させようとイギリスに渡りますが、彼は最終的に次のように報告してきました:「ここでの製粉の方法はアメリカのそれとはかなり異なっている。製粉所の規模はかなり小さく、経営者は工場の省力化にそれほど関心があるとも思えない。多分90%以上の小麦は、小型の安っぽい石臼を使用した風車製粉だ。ここにはおびただしい数の小さな風車が点在している。風車を改良しようという気は更々なく、所有者は次から次へと代わっていく」。それから更に数年後の1800年、イギリスの製粉所におけるふすまの歩留りは約17%で、これはエバンス方式と大差はありません。しかし小麦粉歩留りについては前者が55%の上級粉であるのに対し、後者は64%の最上級粉とその違いは歴然です。

エバンスの着想は製粉技術だけでなく蒸気エンジンにも及び、それらが晩年にかけて幅広く普及するのを見届け、彼は満足感に浸ります。時にこれらの技術は組み合わされ、エバンスは1808年ピッツバーグにおいて、蒸気エンジンを使用した3連の石臼からなる製粉工場を立ち上げます。1812年までには10基の蒸気エンジンが使用されるに至り、それぞれ10~25馬力の出力となりました。それらは12時間で240ブッシェルの小麦粉を製粉することができ、また5000フィートの木材をのこぎりで切ることができました。エバンス方式は、既に充分に確固たる地位を築いていましたが、商業製粉が大型化するにつれ益々重要性を増し、今日の製粉産業に至る原動力となりました。大量生産に対するエバンス方式の潜在能力の高さ、しかし割高な建設費、そして絶え間ない向上心、それらが相まって経済効率を更に高めた大型製粉工場への流れが加速されていきました。