#671 オリバー・エバンス①・・・製粉工程の自動化

オリバー・エバンス(Oliver Evans)については、 (#167)で簡単に紹介しましたが、もう少し詳しくご紹介します。エバンスは1755年、デラウェア-のニューポート(Newport)の近くに生まれ、16歳のとき水車大工に弟子入りします。彼は独創的かつ豊富な創造力を備えた典型的な発明家であり、18歳のときにはシリンダー径が小さくストロークの長い高圧蒸気エンジンを考案しました。これは後に機関車で採用されたものと良く似ており、彼はこのエンジンを作り上げ、様々な用途に応用しました。22歳のときには、繊維産業で使用されていた綿や羊毛用の梳綿機(そめんき・採取した繊維を櫛で均す機械)及びその部品である金櫛を自分で製作します。その後は製粉用機械だけにとどまらず、石膏を砕いて肥料をつくる回転式粉砕機、蒸気エンジンを使った浚渫(しゅんせつ)機械、製氷機、松脂の抽出方法、石臼の調整方法、そしてこれら以外にも数え切れないほどの装置を考案しました。

パタプスコの著名な家柄の出身であるトーマス・エリコット(Thomas Ellicott)は、1795年、エバンスが生まれた頃の中部植民地における製粉産業の様子を次のように記述しています:「私が商売を始めた頃は、この国の製粉産業は停滞期にあり、石臼用として定評のあるフランス産ブール石はおろか、小麦をきれいに磨く回転式精選機もなかった。また小麦を挽いた挽き割りを冷却させるためのファンを装備している製粉所は稀だった。多くはその挽き割りを担ぎ上げ、いちいち手でふるいにかけていたし、状況は大きな商業製粉所でさえ同様であった。また私が商売を始める少し前は、小麦を挽く製粉所とその挽き割りをふるいにかける処が別の場所であることが多く、挽き割りをわざわざ持ち込み、手作業で篩っていたという話をよく耳にした。当時は水車を利用した篩い分け作業というのは極めて驚くべきことであった。こういう時期が暫く続いた後、手動式のファンや動力による水平式篩機が導入された。その後更に、ブール石製の石臼、回転式精選機、そして微粒な小麦粉を得るために目の細かい篩機が導入された」。

このように20~30年の期間に製粉産業にとって、次々と良いことがおこりました。つまりエバンスが生まれ育った頃というのは、製粉産業にとっては活気あふれる時代でした。石臼は改良が加えられ、小麦を磨く精選機械やふるい機も性能が向上し、ファンの使用も増え、関連設備にも動力が利用されるようになりました。しかしエバンスからみると、ほとんどの製粉所は、食品を製造するにはかなり不潔で、製品ロスが多く、労働力も無駄が多く、しかも小麦粉の品質は、製粉する度に異なります。

1782年、当時まだ製粉のことを熟知していなかったエバンスですが、2人の兄弟と一緒に、ウィルミントンの北、数マイルにあるレッドクレイクリーク(Red Clay Creek)において製粉所を建設する契約を結びます。「その後私は、どうやれば既存の製粉所よりも優れたものを建設できるかを研究した。・・・結果それまでは石臼を回転させるためだけに使用されていた動力を、それ以外の全ての作業に応用できる画期的な方法を考えついた。つまり小麦を馬車や船から引き上げてから製粉し、できあがった小麦粉を樽に詰めるまでの作業だ。そのためにはまずどんな作業が人手によって行われているかを確認する必要があった」。そしてほとんど全ての工程に改良を加えたエバンスの製粉所は、1785年までには完全な状態で稼働していたようです。

エリコットはエバンスの製粉所を「全ての異なる作業が巧みに調和して動いている光景は、哲学者や政治家でさえも興味をもってみるだろう」と表現しました。またあるときブランディーワインの粉屋が2人、エバンスの工場を見学にやってきました。彼らが見たのは清潔な屋内で完璧な状態で動いている製粉機であり、そのときエバンスは近くの畑で干し草を準備している最中でした。彼らは大層感動したけれど、奇妙な機械がカタカタ音を立てているのにびっくりして、帰るとその製粉所のことを「訳の分からない機械の集まりである」と報告したそうです。