#327 うどんの起源①・・・弘法大師説

さぬきうどんの創始者は誰かと聞かれれば、香川県民のほとんどは、善通寺が生んだ傑僧弘法大師・空海と答えます。大師は苦難の末、延暦23(804)年に、遣唐使の随員として入唐し、艱難辛苦の末勉強を終え、帰国後真言宗を開きました。大師はそのとき宗教や先端技術だけでなく、うどんの本場である中国にて、うどん製法も習得したと言われています。そして弘仁12(821)年、大師は満濃池の大改修工事のために、讃岐に戻ってきているので、そのときにうどんの製法を、讃岐の住民に伝授したのかも知れません。

それでは讃岐のなかではどこがうどんの発祥地というと、一部異論はあるものの大方の一致した意見は、旧府中村(現坂出市)であり、郷土のうどん研究史家であり随筆家である山田竹系先生(97位にランクイン)もその説を支持しています。その主たる理由は府中村の立地条件によるものですが、これは昭和38(1963)年発刊の「府中村史」によると次のように説明されています(原文のまま)。

ウドンは小麦粉で作るので製粉所のない処には発達しない。香川県には川が多いが年中殊に水枯の夏でも水の流れる川は綾川より外にない。綾川の水源は拡大な枌所村の官有林で水量が多い上に、府中湖に入りては綾北七百町歩に灌漑する用水路を兼ねているので、夏の水枯の時でも灌漑水が流れる。此の年中流れる水を利用して精米麦や製粉が発達した。本村には下原、小原、石井の三ヶ所に水車があって綾川の水を利用し、使った水は再び綾川に戻す機構であるから夏の灌漑水に少しも悪影響がなく、年中休みなく水車も廻すことが出来た(尤も毎年石井から二二五人小原から一五〇人、下原から一二五人の人夫賃を綾北水利組合に収めた)。かくて本村人はいつでも容易に小麦粉を手にすることが出来た所から自然ウドンが発達したと思われる。

最近東京あたりでは「讃岐手打ウドン」が大変賞味されているが、讃岐ウドンも綾川筋特に本村あたりが発祥地のようである。事実他府県のウドンより讃岐ウドンがうまいし、讃岐でも綾側筋ウドンの本場とされて居る。綾川水利用水車の出来たのは随分古いことで滝宮村逢阪水車は、菅原道真と関係ある竜橙院時代からあったといわれる。本村では石井水車が一番古く下原、小原水車は後に出来た。

ただ以上の推論にはいくつか疑問点もあります。まず弘法大師がうどんのレシピを持ち帰り、それを讃岐の地に広めたという説に異存はないものの、問題はそれらについての記録がなく全ては伝聞のみであるという点。次に上記の逢坂水車の設置年月日についても不明な点があります。例えば「讃岐の水車(昭和63年10月1日発行)」には讃岐の水車384基についての資料が掲載されていて、上記の逢坂水車については設置年月日が仁和年間(886年頃、不詳)とありますが、これはどうみても眉唾的なところがあります。というのはそれ以外の水車については、設置時期が不詳もしくは、どんなに古くても江戸末期となっているからです。よって特定の水車1基だけが他に比べて1000年以上も古いというのは、どう考えても現実的ではありません。

このように弘法大師・うどん創始者説はいい話だし、香川県民としても信じたいところはありますが、完全に裏がとれているわけではありません。しかしそう考える方がロマンがあり、遠く平安時代に思いを馳せながら、うどんを啜るほうが絶対に旨いのは確かです。