2006年4月のお知らせ

「ヒンヤリ」とした空気のなかに、暖かい太陽の日差しを見つけます。心和むひとときです。 新聞・雑誌に「桜」の特集が掲載される季節・・・。どなたにも「桜」に関するたくさんの思い出があることでしょう。アメリカの航空博物館に、日本軍の特攻機「桜花(おうか)」が展示されています。着陸用の車輪はなく、体当たりのためだけに作られた兵器です。作家の「城山三郎」さんは「桜花」を見たとき、搭乗して死んでいった若者を思い、体がふるえたそうです。「旗」と題する若い頃の城山さんの「詩」です。

「旗振るな 旗振らすな  旗伏せよ  旗たため  社旗も校旗も 国々の旗も

ひとみなひとり  ひとりには  ひとつの命

旗伏せよ  旗たため  限りあるいのちのために」・・・・。

この「旗」は「桜」に相通ずると、城山さんはおっしゃいます。

歌人の岡野弘彦(おかのひろひこ)さんは終戦の年に20歳(城山さんと似た境遇にいました)。学徒兵として米軍上陸に備え、爆弾を抱いて戦車の下に飛び込む訓練を続けました。4月13日。部隊の移動中に東京空襲に遭います。炎は夜空を焦がし、ごうごうと熱風を巻き起こしました。満開の桜の木々が、立ったまま炎に包まれていきました。5日後、茨城へ移ると「桜」がまた満開でした。軍服に「桜」のはなびらが散りました。そのときに詠んだ歌。

「すさまじく  ひと木の桜  ふぶくゆゑ  身はひえびえと  なりて立ちをり」

「おれはもう一生、桜を美しいなどと思うまい、思えまい」と・・・・。「身をえぐられるような実感でした」と・・・。深い傷は岡野さんが50歳をすぎたころ、ようやく和らぎます。「私の戦後は、歌人として桜と和解していく歳月でもありました」。いまでは「桜」を詠んだ歌も多いそうです。

「桜男」と呼ばれた人がいます。笹部新太郎(ささべしんたろう)さん。1887年、大阪の生まれ。1960年の春、岸内閣の通産相を努め、電源開発初代総裁の高崎達之助(たかさきたつのすけ)が笹部を訪ねました。樹齢400年の桜の写真を見せ、「別の場所に移したい・・・。可能性はありますか」と聞きました。岐阜県に建設中の御母衣(みほろ)ダムに水没する村の桜でした。40トンくらいあるでしょうか・・・・。葉が落ちるのを待って、桜の移植は晩秋に始まりました。クレーンやブルドーザーが投入され、40日かけて移植は完了しました。「桜」の移植は樹木の生命を軽んじる人間社会への抵抗でもありました。

1965年、埼玉県の跡見学園女子大学に247本の桜が届きました。卒業生の岡村比都美さんは「桜」の由来を調べました。かつて大学のある卒業生が若くして亡くなりました。悲しんだご両親が結婚費用の一部で、桜の植樹をお願いした・・・という由来。岡村さんは「桜を楽しむ会」をつくりました。「桜の枝から毛糸を染め、編物や工芸品を作ります。ハンカチを染める、装身具を作る、桜ご飯をたいてみる・・・。こうすれば、桜の思い出を、桜あそびを手元に残しておけます。」

今年も 大学のキャンパスは「桜」の花でいっぱいでしょう。

4月のお休みは 15日(土曜日)、29日(みどりの日)
   それと日曜日です。

讃岐では、毎年恒例の「こんぴら歌舞伎」が、琴平町の金丸座にてはじまります。
季節の変わり目です。おからだ 大切になさってください。

木下製粉株式会社会社  平成18年4月2日