小麦製粉というのは、古代エジプト時代よりもずっと以前の、少なくともおよそ2万年位前から続けられてきたことが様々な調査からわかっています。最初は石で叩いて潰していたものが、やがてサドルストーンという道具が考案されると、前後運動(往復運動)によって粉ができるようになります。そして紀元前1000~500年になるとやっとロータリーカーンと呼ばれる、石臼の原型である回転式の道具が登場します。回転運動により、水力や畜力といった人間以外の力が利用できるようになり、これは製粉史上、実に革命的な出来事でした。

その後石臼は、近代になるまで延々と使用され続けます。もちろん関連技術、応用技術においては色々と開発されますが、「小麦を挽く」という基本的な作業は、2000年以上に亘り全て石臼で行われていました。現在の製粉機の主流はロール製粉機ですが、これが実用的な段階に入るのは19世紀後半で、それは今から僅か100年余り昔の話です。さて近代的な製粉工場はどういうものかと言えば、それは次の3つの条件を満たしている必要があります:

①全ての工程が自動化されていること
これは小麦を搬入してから、最終的に小麦粉ができあがるまで、人間の手を介さないということです。但しこれは、ボタン1つ押せば素晴らしい小麦粉ができるということではありません。ロール機を始めとするすべての機械の調整は、あくまで熟練技術者に依存します。ただ自動化により、人間が単純作業から開放されるということです。

②段階式製粉方法を実践していること
小麦製粉を行う上で一番のポイントは、「いかに表皮部分が混入することなく、胚乳部分だけを取り出すことができるか」という点です。表皮部分が混入すると、うどんにしたときに色調がくすんだり、また食感がザラザラしたりするからです。よって一般には表皮ができるだけ入らないほうが望ましいと言われています。しかしいきなり小麦を押し潰してしまうと、両者がぐちゃぐちゃになってしまい、そうなってはもはや取り分けることは不可能になります。

それを回避するには、先ず小麦を大きく割り、表皮のついた部分と、そうでない部分とに分けてやります。次に両者を別々の異なるロール製粉機で、更にもう一段階小さく砕き、篩にかけてやります。そしてこのような作業を最終的に小麦粉ができるまで続けます。つまり小麦を少しずつ小さくしながら、最終的に小麦粉にする方法を「段階式製粉方法」といい、これが現在の製粉方法です。製粉工場の仕事とは、「小麦の胚乳部分をきれいにとり出す」という実にシンプルな作業ですが、これを上手に行うには「段階式製粉方法」が不可欠で、これが製粉工場にたくさんの機械が並んでいる理由です。

③石臼は使用せず、全てロール製粉機を使用していること
石臼はどんなに注意深く目立てをして、正確に取り付けても、ロール製粉機のような正確性が実現できません。よって各製粉工程でのストック(小麦粉になる途中段階の半製品)の粒度管理がうまくできず、段階式製粉方法がうまく実現できません。更には、石臼はその大きさの割には粉砕能力が低く、大量生産に向かないという問題点があります。また石臼は目立ての費用が高くつき、経済性の面でも生産性の高いロール製粉機に劣ります。

では以上の3つの条件を満たした、世界最初の近代的製粉工場はどれかというと、それが先ほどご紹介したウォッシュバーンCミル(1879年6月)になります(前節参照)。粉塵爆発で木っ端微塵になった工場跡地に、当時最新鋭の製粉工場が建設されます。ウォッシュバーン製粉工場は、歴史的にみてとても重要であるという理由はそれが近代的製粉工場第1号であったからです。

ウォッシュバーンCミルが建設されるに至った経緯はなかなか興味深いので、ついでに少し説明したいと思います。彼のフルネームはカドワラダー・コールデン・ウォッシュバーン(Cadwallader Colden Washburn)、略してC.C.ウォッシュバーン。メイン州リバーモア(Livermore, Maine)で7人兄弟の一人として生まれました。兄弟優秀な政治家が多い中、彼も負けず劣らずアメリカ合衆国下院議員及びウィスコンシン州知事を勤めました。また現在もアメリカ有数の製粉会社であるジェネラル・ミルズ(General Mills)を興したことでも有名です。

ウォッシュバーンAミルで、凄まじい粉塵爆発がおき、木っ端微塵になったのは、1878年5月2日の夕方でした。一報を聞きつけ、急遽現場に駆けつけたウォッシュバーンは、供給不足を解消すべく、Bミルのすぐ隣地に新工場建設を、その場で即断します。そして自ら歩測を始めた彼は、Bミルの基礎よりも更に余計にいくらか歩いたところで立ち止まり、「この地点まで建設することにしよう」と担当者に告げます。その結果できあがった建物の全長は145フィートと、元のBミルよりもかなり大きいものとなりました。

できあがった新しいミルは30基の石臼(旧Bミルは12基)に加え22基のロール機(6基はブレーキロール、16基はスムースロール)、そして44台のシーブ・ピュリファイアーと75台のリール式篩機を備えていました。この工場は操業開始後、1年以上経過した1880年の1月になると、ようやくウォッシュバーンCミルと呼ばれるようになります。その後、増設されたCミルは1882年には、一日当り2,000バレルの小麦を挽砕するようになります。

このCミルにおけるとりわけ革新的な改良点は、石臼から排出される粉塵対策でした。1878年の粉塵爆発に懲りたウォッシュバーンは、全ての石臼に粉塵排出装置を取り付けましたが、これについては次のようなエピソードがあります。石臼から排出される粉塵の処理については、フィラデルフィアにあるブレーマー・バーンズ(Brehmer-Behrns)社製の排出装置が良いとの評判を聞きつけたウォッシュバーンは、早速その装置をミネソタまで持ってきて実演するよう電信を送ります。

 

そのとき対応したのが、たまたま製粉担当の若き技術者ウイリアム・ドラバール(William de la Barre)でした。彼がミネソタに到着すると、ウォッシュバーンは彼に「購入を決める前に、ちゃんと機能するかどうか確認したいので、実際に何台か、試しに動かしてみてくれないか」と言います。しかし会社の方針は現金払いで、デモ機の使用は認めていません。そこで悩んだドラバールは、その代金を個人的に立て替えて、デモを行います。もちろんデモはうまくいき、最終的に支払いも問題なく行われましたが、その事実を後で知ったウォッシュバーンは、ドラバールにも改めて手数料を支払い、彼を技術顧問として会社に迎えることになりました。

さて話は戻り、完成したCミルの建屋は当初の予定よりも大きかったため、建物南側に18フィート程の空間が残りました。そこで技術責任者のグレイ(W.D.Gray)は、そのぽっかりと空いた空間を、暫くじっと眺めた後に、次のように考えます:「ひょっとしたらこの空間は、石臼を使わないロール製粉機だけの新しい製粉工程を試すには、絶好の機会かも知れない。それに先進的なウォッシュバーンは、この考えにきっと共感してくれるに違いない」っと。そして早速ウォッシュバーンにそのプランを提案したところ、案の定快諾してくれたので、その空間に日産100バレルの小規模なテスト・ミル(試験工場)を作ることになりました。

こうやってCミルの一角にできたウォッシュバーンのテスト・ミルは、完全に自動化された工程であり、石臼は一切使用せず、また段階式製粉方式を採用した画期的なラインでした。つまり近代的製粉工場であるための3つの条件を最初に満たした近代的なテスト・ミルとなったわけです。下図はそのテスト・ミルの概略図です。