2013年9月のお知らせ

m201309お盆がすぎると、蝉の鳴き声がすこし小さくなりました。蝉たちも、暑さに疲れたのでしょうか。汗を流しながら、日焼けした顔の高校生が自転車に乗っています。「野球部に入っているの?」「はい・・」。暑さに耐えながら練習する姿を想像しながら、思わず声をかけてしまいました。

8月15日、68回目の終戦日を迎えました。この季節になると、伯父や叔母たち、そして両親から戦前の話をもっと聞いておくべきだった・・と思います。書物から歴史を学ぶことはできますが、人々の空気を感じ取る事はできないからです。昭和17年頃、両親は中国の上海に住んでいました。父は華中鉄道(1939-1945・日本と中華民国の合併特殊法人)に勤め、母はサコタ貿易という日本企業に勤めていました。「上海では、仕事をしながら、中国語と英語を学ぶことができて楽しかった」と、母が何度も言っていたことを憶えています。

昭和19年(1944)の暮れ、兄は上海で生まれました。戦争状態の悪化に伴い、父は中国内の戦地に、母は翌年3月に兄を連れて日本に帰ってきました。上海から北朝鮮・韓国を経由して、釜山港から下関に着きました。戦後生まれの私にとって、「戦争」を身近に感じることはありません。ただ、お寺の境内で見かけた、白い服に身を包んだ、手足が不自由な傷痍軍人の方たちの姿を、はっきりと憶えています。

昭和47年(1972)、田中角栄首相のもとで日中国交が樹立されると、父は直ぐに上海を訪ねました。自分が住んでいたアパートを探し、確認したかったようです。「アパートは当時の場所にあった!」と父は感激していました。そして、毎年のように中国を訪ねました。戦争という社会情勢にもかかわらず、たくさんの思い出・思い入れがあったようです。そして、中国で行方不明になった兄を探すことも大切な目的でした。

35年ぐらい前でしょうか!?NHKテレビで、厚生省の「中国残留邦人」の身元調査が放映されていました。敗戦時、海外にいた軍人は350万人、民間人は250万人。敗戦時の混乱の中で、中国大陸に多数の日本人の子どもが残され、中国人の養父母に育てられました。テレビでは各人、一人ずつ、育てられた当時の年齢・養父の名前などを語ります。当時、2歳・・3歳・・の方たち。成人後、養父母から「日本人であることを告げられた」方。ほとんどの方は日本語を話すことができません。母は、テレビに食い入るように、この番組を見ていました。誰か知っている人はいないだろうか・・? 兄と同世代に、中国で生まれ育った人たちが、気がかりだったようです。

長野県の「無言館(むごんかん)」という美術館は、第2次世界大戦で没した画学生の遺作を収集し、展示しています。2006年、丸亀市の猪熊弦一郎美術館にて「無言館」の作品が展示されました。絵画・家族や親しい人への手紙・思い出の品々など。一枚の絵画は、「坂出」の風景でした。「坂出港」らしい・・。絵画全体の色は、夕暮れ時でもないのに、暗く重々しい色でした。私は、このような「坂出の街の色」を見たことも、想像したこともありませんでした。母が買った「支那語発音辞典」。紙は茶色くなり、辞書の片隅に「上海 内山書店」というシールが貼られています。辞書をめくりながら、上海での両親の生活に想いを馳せました。

9月のお休みは 7日(土曜日)・16日(敬老の日)・23日(秋分の日)そして日曜日です。

「夕陽の色」が鮮やかなオレンジ色です!まるで、線香花火がきらきらと輝いたあと、ぽつんと地面に落ちる瞬間のようです。暑さも、もう少し・・。おからだ 大切になさって下さい。