2003年3月のお知らせ

車を運転しているとき、あたり一面 黄色の菜の花畑が目にとびこんできました。 寒い一日のなかに、春の陽ざしが感じられます。

湯川スミさんは、1910(明治43)年の生まれ。42歳でノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹さんの奥さまです。以下はスミさんのお話です。・・・

秀樹は、陽子と中性子を結合して安定した原子核をつくる力の正体として「中間子」の存在を予言しました。昭和10年、外国人向けの雑誌に英語の論文を送りました。

14年後、アメリカの物理学者が「湯川の言ったことと実験結果が合う」と言いだして、ノーベル賞を頂きました。「日本人は畳の上に座って勉強すると聞いているが・・・正座して論文を書いたのですか。」というインタヴュ-に、「寝床で考えをまとめました」と答えました。賞金は京都大学の研究室と湯川記念館に寄付して、外国からの研究者の旅費に使って頂きました。昭和23年、秀樹はアメリカのプリンストン高等学術研究所の教授として招かれ、2人で同じ研究所にいらしたアインシュタイン博士にお目にかかりました。お部屋に入るやいなや、博士は私たちの手を握られて涙をポロポロと流されて、わびられました。・・「原子の力を爆弾に利用できると漏らしたひと言が、ルーズベルト大統領の耳に入り、物理学者に原爆をつくらせました。そして、多くの日本人を殺してしまった。」秀樹は、「博士が悪いのではありません。戦争の仲間入りをした日本もいけなかったのです。」と答えました。その後、2人は昼食やお茶の時間に、核兵器の問題について話し合うようになりました。アインシュタイン博士の考えは次のようなものでした。「戦争がおこらない仕組みをつくらないといけない。そのために世界を連邦にするしか道はない。この運動の先頭に立つのは被爆国の日本しかない。」

私はこの春93歳になります。足が弱っているほかは、いたって健康です。22年前に亡くなった秀樹が残してくれた世界連邦運動が支えになっています。世界連邦は現在の国連を改正・強化して核兵器を廃絶し、地球上から戦争をなくし、争いごとは「世界法」で裁くシステムづくりを地球規模で進める運動です。秀樹はこの運動だけは続けるように私に言い続けました。「人類の半分は女性なのだから、君が運動の先頭に立て」が口癖でした。外国の方は、「戦争放棄を明文化している日本の憲法」を感心してくださります。

小学校6年生の女の子は、「地球の体を大切に」という題の作文を書きました。「人間は地球を大切に思うか思わないかで、地球のお医者さんになったり、バイキンになったりします。私は世界中のみんなが地球のお医者さんになってほしいと思います。」

ここにも、小さなアインシュタインと秀樹がいました。

3月のお休みは 8日(第2土曜日)
  21日(春分の日)です。

お体 大切になさってください。

木下製粉株式会社会社  平成15年3月7日