2012年10月のお知らせ

初秋の夕暮れどき、時間はゆっくりと、静かに流れていきます。夏から秋への移り変わりの季節が好きです。汗を流しながら、何かをやり遂げた後の達成感の空気に、似ているからです。

楽しみに待っていた社内旅行。朝8時に会社を出発、瀬戸大橋を経由し、京都に向かいました。観光バスの高い座席から眺める瀬戸内海の景色は、目が開けられないほど「きらきら」輝いています。昼食後、左京区にある「詩仙堂(しせんどう)」を訪ねました。正確には、詩仙堂は「凹凸か」の一室です。「凹凸か」とは、でこぼこしたした時に立てた住居という意味だそうです。なるほど、入口から石畳みの階段が続き、建物や庭園は、山の斜面に沿って造られています。詩仙堂は、徳川家の家臣であった「石川丈山」(1583-1672)の山荘です。

のちに朱子学を学び漢詩の大家、そして煎茶の開祖となりました。散策しながら思ったことは、建物の雰囲気が質素であり、京都の町の片隅にひっそりと身を潜めている感じ。でも凛とした趣きがあります。「詩仙の間」に座って、庭を眺めました。足を伸ばしたり、膝を組んだり・・。一瞬、「時が止まったかのような」錯覚にとらわれる空間です。そのとき、静かに雨が降り始めました。雨水は、竹の筒に添って流れてきます。

詩仙堂から、住宅街の細い路地を歩いて行くと、「金福寺(こんぷくじ)」に出会います。元禄年間(1688-1704)、鉄舟僧侶は荒廃していた金福寺を再興します。住職、鉄舟は俳人の松尾芭蕉と親交があったことから、芭蕉はしばしば金福寺を訪ねたそうです。鉄舟は、芭蕉が使っていた庵を、「芭蕉庵」と名付けました。後年、与謝蕪村は芭蕉を慕い、金福寺を訪れますが、荒廃した芭蕉庵を見て心を痛めました。

1776年、蕪村は一門たちと芭蕉庵を再建し、「耳目肺腸(じもくはいちょう) ここに玉巻く 芭蕉庵」と喜びの句を詠みました。「耳目肺腸」とは、蕪村一門たちが、身も心も捧げて「芭蕉庵」を再興したこと。「玉巻く」とは、初夏の季節、「芭蕉や蓮」などの若葉が「くるくる」と巻いている状態。蕪村一門が、ここ芭蕉庵に集った様子と意味をかけています・・との説明でした。芭蕉庵の小さな窓から、京都の町が絵のように見えます。

余談ですが、「俳句」は世界一短い詩として海外に紹介され、「国際俳句蕪村賞」も創設されました。蕪村の生誕300年(2016年)に向けて、俳句への人気が高まっています。蕪村は、ここ、金福寺にて眠りについています。幼い頃、内容を理解できないままに、NHK大河テレビ番組「花の生涯」を見ていました。今回、思いがけずに、ガイドさんから船橋聖一著、歴史小説「花の生涯」の話を聞きました。

江戸末期の幕府は、将軍の世継ぎ問題・開国問題などで揺れ、大老、「井伊直弼(いいなおすけ)」は反幕府勢力の弾圧を行います。直弼を恋慕う「村山たか女」は役に立ちたいと思い、反幕府勢力の情報を集めます。大老が「江戸城桜田門外の変」で暗殺されると、村山たか女は、土佐・長州藩士により捕らわれ、三条河原で晒し者にされました。3日後、尼僧に助けられ、名を「妙寿」と改め金福寺で尼となります。そして明治9年、金福寺にて67歳の波瀾の生涯を終えました。見逃してしまいそうな小さなお寺、金福寺。たくさんの物語が込められているお寺です。

10月のお休みは 8日(体育の日)、27日(土曜日)
   それと日曜日です。

「案山子」が田んぼに、現れました。驚いたり、笑ったり・・・。季節の変わり目です。おからだ 大切になさってください。

木下製粉株式会社  平成24年10月1日