2019年6月のお知らせ

太陽の日差しが強くなりました。荷物を運んで下さる運転手の方が、汗を流しながら事務所に入ってきます。「今から、愛媛県まで帰るのは大変ですね。気をつけてくださいね」。「僕は、鹿児島県の枕崎(まくらざき)から北海道の稚内(わっかない)までの運転の経験があるから、大丈夫ですよ」。すごい!!

3月、初めて中国を訪ねました。仕事で「蘇州(そしゅう)」に滞在している友人夫婦に会うのが目的です。岡山空港から上海(しゃんはい)まで直行便で約2時間、時差は1時間。岡山空港では既に、「中国の雰囲気」に包まれました。日本での研修期間を終えた10人ほどの女性たちが、楽しそうに写真を撮りあっています。「日本語を忘れたら、いかんよ」と仕事関係の方が声をかけています。私の心の中には、いつも「上海」という街があります。というのは、1940年代初め、両親が上海に住んでいたからです。母は日本の貿易会社で働きながら、「中国語と英語を学ぶことができて、楽しかった」と、時おり話してくれました。

中国と日本との関係を少し、振り返ってみましょう。第二次世界大戦後、中国では中国共産党が優位を占め、1949年10月1日、毛沢東(もうたくとう)主席のもとに中華人民共和国が成立しました。それ以後、日本と中国との間には国交がありませんでした。1972年9月29日、田中(たなか)角栄(かくえい)総理大臣と大平(おおひら)正芳(まさよし)外務大臣は周恩来(しゅうおんらい)首相とともに、北京にて「日中共同声明」に署名をしました。「日中国交正常化」が実現して、両国の友好の証として、2頭のパンダ「カンカンとランラン」が日本へ贈られました。父は国交正常化のあと、直ちに上海を訪ねました。「住んでいたアパートの建物があった」と感慨深そうでした。

上海空港では、「指紋の読み取り機」にパスポート・右手の親指・左手の親指・右手の4本指そして左手の4本指をあてます。何回も試しましたが、上手く読み取ってくれません。私の困った様子に気づいた係員の方が、「あなた、何歳!?」「〇〇歳です」。「指紋が薄いわ」と言われ、(中国語で書かれた)赤い札を渡され、入国審査を通過しました(がっくり・・です。笑い)。空港で待っていてくれた友人と、地下鉄で市街地に移動します。驚いたことが二つ、あります。地下鉄の改札口(入り口)を入る度に、持ち物と身体検査があります。「大きな国で、たくさんの人々の安全を管理するためには必要なことだよ」と友人が説明してくれました。

地下鉄の切符は、日本のクレジット・カードのようなプラスチック製のカードで、使用後は回収箱に納められ、再利用されます。上海の街の中央を流れる黄浦(こうほ)江(こう)の両岸は、人々の散策の場所であり、多くの高層建築がそびえています。子どもたちは、海外から来た「私たち」に英語で声をかけてきます。「ハー・ワー・ユー。マイ ネーム〇△・・」。中国では初等教育にて英会話が積極的に教えられているそうです。

黄浦江を眺めながら、「両親もこの河を眺めたんだろうな・・」と想いを馳せました。きちんと「中国での生活」を両親に聞いておくべきだったと思います。そして、かつて日本人の居住地域(日本人租界(そかい))が小さな公園になっているKunshan Garden(昆山公園)を訪ね、ベンチに腰掛けました。夕暮れの淡い光の中で、高齢の方たちが散歩やおしゃべりを楽しんでいます。オレンジ色に染まった素敵な笑顔の「中国の女性たち」を見かけました。大きな声で話しながら、大きな笑顔をうかべて人生を楽しんでいます。(続く)

6月15日(土曜日)・6月22日(土曜日)そして日曜日、お休みを頂きます。

時おり訪ねるジムのロッカー・ルームで、小学4年生の女の子から、キャンディーを1個、頂きました。包み紙には、Lucky Dayと書かれています。「意味、わかる!?」「わからん(讃岐弁)」「幸せな一日という意味よ!」。小さなキャンディーは、疲れていた私の気持ちを幸せにしてくれました。おからだ、大切になさって下さい。