2009年5月のお知らせ

急に暖かくなったり、寒くなったり、強い風が吹いたり・・・この季節、天気は「きまぐれ」です。一週間のあいだ、「春夏秋冬」と四季を過ごしているみたいです。「風邪、ひかれていませんか!?」。

屋根の軒先から、「ちゅんちゅん、ぴーぴー」と声が聞こえてきました。細い隙間から、何か動いているものが見えます。私が近寄って「じーっ」と見ようとすると、隠れようとします。瓦に隠れてわかりませんが、「すずめ」あるいは「つばめの雛」みたいです。

先日、会社で働いている人達のために新しい休憩室が出来上がりました。事務所の二階を改造して、窓が広く、太陽の日差しがたくさん入る、明るい休憩室です。現在の製粉工場・事務所は、昭和38年に建築しました。「丸亀市にある旧兵舎が解体される」という知らせを聞き、兵舎で使われていた資材を使用して、建築しました。先代社長が「兵舎に使われている木は、しっかりしとる。この木を使って、工場を建てるんや」と言っていた事を覚えています。事務所に、兵舎の建物に使われていた「木」の一部を保管しています。「旧丸亀歩兵第十二連隊 第六中隊。兵舎建築の材木。明治八年五月八日」と先代社長の文字で書いてあります。

日清戦争(1894年~1895年)後、日本の陸軍は7個師団から13個師団に増やされました。明治31年(1898年)、丸亀歩兵第12連隊・徳島歩兵第43連隊・高知歩兵第44連隊など四国を統轄する第11師団が善通寺市に置かれました。そして、乃木(のぎ)希典(まれすけ)中将が初代第11師団長として赴任してきました(明治34年5月まで赴任)。善通寺市へは単身赴任し、金蔵寺(こんぞうじ)(香川県中西部)に宿泊していたそうです。赴任した年の大晦日に、東京から金蔵寺まで、静子夫人が乃木中将に面会に来ました。しかし公務を理由に、静子夫人とは会わずに東京へ返したそうです。乃木中将は、肉親や妻子と分かれて兵役に就いている部下を思い、自分だけ家族に会うことを控えたそうです。

明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、四国の第11師団にも動員令が下り、多度津(たどつ)港(香川県中部)から出征しました。第11師団は第3軍に編成され、旅順攻撃軍に加わりました。司令官はかつての第11師団の師団長であった乃木大将でした。多度津港を見下ろす高台に桃陵(とうりょう)公園があり、「一太郎やあい」の像が建っています。岡田梶太郎(通称一太郎)は多度津港から輸送船で日露戦争に出征することになりました。

一太郎の母「カメ」は、息子の見送りに腰弁当と草履履きで、観音寺(かんおんじ、香川県西部)から多度津港まで歩いて来ました。しかし一太郎の大好きな氷砂糖を買いに行ったために、輸送船はすでに岸壁を離れていました。そこで「カメ」は大声で、「一太郎やあい、天子様に御奉公するんだぞ~。わかったか~。聞こえたら鉄砲を挙げろ。」と叫びました。一太郎は、それに応えて銃を高くあげたそうです。遠足で桃陵公園に行きましたが、小学生の私は話を十分に理解できませんでした。歴史の時代背景を知り、改めて一太郎への母「カメ」の思いを察することができました。

5月のお休みは 3・4・5・6(GW)、30日(土曜日)
   それと日曜日です。

貴重な歴史を経験し、多くの人々と接してきた「兵舎の木」。改造中の柱の骨組みを見ながら、「兵舎の木」に囲まれて生活している事に、元気を与えられました。おからだ、大切になさってください。

木下製粉株式会社会社  平成21年5月1日