2004年4月のお知らせ

「春はる」がきました。この季節 卒業式・入学式・転勤・引越しと 新しい生活を始められる方が多いかと思います。

詩人の以倉紘平さんは、1965年から33年間 大阪の釜ヶ崎に隣接する工業高校の定時制で、国語を教えながら夜学生と生活をともにしました。赴任時からの10年間の印象が最も鮮烈ある・・・とおっしゃっています。

あの頃、定時制の生徒数の方が全日制を上まわることもありました。学年制であったから全員 が同じ授業を受ける「学級」が存在しました。級友との会話・協調・団結・競争・対立・理解・友情などの舞台はこの「学級」という小さな共同体にありました。私たちの人生で、学校時代の思い出がなかったら、どれほど殺風景でしょう。同窓会にいそいそ出かけるのも、利害損失を超えた あのなつかしい住人である「級友」に会いたいがためです。

学級は人生を学ぶ舞台でもありました。夜学生は複雑な生いたちを背負っていて、言葉にならない鬱積(うっせき)が、どの生徒たちの心にもあったと思われます。「なぜ 自分は夜学にきたのか・・・。」それを言葉にすることが大切である・・・と私は思いました。私は生徒たちに自分史を書くことを提案しました。一人の勇気ある生徒が語り始めた作文を、私は徹夜してガリ版を切り、次の授業で学級全員に配って読ませました。・・・あの日の静寂を、私は今も忘れません。誰かが泣き出すことも、いたたまれなくなって教室の外にとび出すこともありうるような、はりつめた静けさでした。「お前もそんな苦労があったのか・・・。」作文を書いた仲間を理解すると 次々と書き手が増えていきました。3学級39人分の「証言集」にもなりました。

理髪店の椅子を作る会社に勤めるM君に、アメリカの支店に行く栄転の話がきました。小学校から新聞配達をして家計を助けてきたM君には、保険の外交員をして女手一つで自分を育ててくれた母親がいます。最初アメリカ行きを大喜びしたM君でしたが、やむをえず辞退を申し出ました。それで みんなの意見を聞くために、同級生が集まりました。リーダー格のK君は、「お前なあ、お母ちゃんの腰もむぐらいしか能のないやっちゃさかい、あきらめろ!」。K君は泣いているようにも 怒っているようにも見えました。母親の労苦の人生を見て来た夜学生の、みごとな判断でした。M君の結婚式で仲人を努めた私は、この話を披露しました。控え室でM君の母親が私の手を握りしめ、「先生、よう聞かせて下さいました。私はなんにも知りませんでした。」と涙を流されました。M君は母親に黙ってアメリカ行きをあきらめたのでした。

昔の夜学生は、人生の蜜がつまっていました。

4月のお休みは 17日(土曜日)、29日(みどりの日)、それと日曜日です。
5月のお休みは 3日・4日・5日、22日(土曜日)、それと日曜日です。

桜さくらの花が ひらきはじめました。讃岐の琴平では、「こんぴら歌舞伎」がはじまりました。
おからだ 大切になさってください。

木下製粉株式会社会社  平成16年4月3日