2025年6月のお知らせ

「蚕起きて桑を食(は)む」。新緑の季節、蚕は桑の葉を食べて大きくなります。「蚕時雨(こしぐれ)」という言葉は、蚕が桑の葉を食べる音を意味し、静かに優しく小雨が降っている情景を現わしているそうです。小学校の頃、教室で「蚕」を育てていました。毎朝、「蚕」を見る事が楽しみでした。「もりもり」と蚕の食欲の旺盛なこと・・(笑)。

第6回、瀬戸内国際芸術祭の春会期(4月18日~5月25日)が開催されました。瀬戸内海の島々を舞台に、作品が展示されます。坂出市の瀬居島(せいじま)を車🚙で訪ねました。「えっ!車🚙で?」と驚かれる方がいらっしゃる・・と思います。1965年、坂出市の沖合に浮かぶ「沙弥島(しゃみじま)」と「瀬居島」は浅瀬が埋め立てられ、陸続きとなりました。約10年の歳月をかけて「番の州(ばんのす)臨海工業団地」が建設されました。坂出市街地から、高くそびえる造船工場やコンビナート工場を走り抜け、瀬居島に向かいます(「ゴジラの映画」のワン・シーンのような錯覚に陥ります)。瀬居島を初めて、訪ねました。

既に廃校となっている、旧瀬居小学校や旧瀬居中学校に作品が展示されています。廊下に飾られている「郷土の先人 古川庄八」の説明が目に留まりました。庄八は天保6(1835)年2月4日、瀬居町に誕生。安政2(1855)年3月、塩飽(しわく)勤番所(きんばんしょ)は庄八に長崎の海事伝習所へと命じます。ペリーが来航し、ロシア艦隊が開国を迫り、江戸幕府は海防の必要を感じていたからです。勝海舟をはじめ、庄八は一期生として厳しい実習を終えました。文久2(1862)年、初の海軍海外留学生16名の一人として、オランダで3年間、研修を受けます。「幕末から明治維新後にかけての動乱期、海に生き、船を愛した、瀬戸内海の小島、瀬居島が生んだ古川庄八」と、文章は締めくくられています。

は、瀬戸大橋と工業地帯の高い建物が、東側は「ゆったり」とした瀬戸内海の島々が見え、対照的な景観を呈しています。瀬居島が陸続きになってから、「人々の生活や気持ちは、どのように変わってきたのでしょうか?」と思いながら、瀬居島を歩きました。

6月のお休みは、14日(土曜日)・21日(土曜日)・28日(土曜日)そして、日曜日です。

9月の秋祭り、瀬居島では、船2隻を横につなげて、「神輿」を乗せる「船渡御(ふなとぎょ)」という行事が行われます。男性たちは船に乗り込み、ゆっくりと港を巡るそうです。瀬戸大橋を望む「防波堤」にお祭りの絵が描かれています。おからだ 大切になさって下さい。

        令和7年6月1日
木下製粉株式会社