#583 日本最古の回転式石臼

f583一口に臼といっても色んなタイプがありますが、代表的な臼としては「搗き臼」と「挽き臼」の2つがあります。前者は、うさぎさんが杵でついている臼で、これは「打撃力」、つまり叩くことによる衝撃で穀物を小さくしたり、餅をついたりします。後者は、石臼のように引き裂く力、つまり「せん断力」によって小さくします。石臼は下臼が固定され、上臼が回転することにより、その間に挟まれた穀物が挽き裂かれて小さくなります。搗き臼の原理は、叩くという原始的な動作なので、搗き臼の歴史は人類の歴史と同じくらい長いはずです。

 

f583_2一方、回転式石臼(以下石臼)は、その発明にはかなりの時間を要しました。ストーク先生によると、ギリシャ人により紀元前500年頃に起こった一連の発展の中で発明されたことになっています。往復運動によるサドルストーン、弧状運動によるレバーミルは、もっと古くからありましたが、これから石臼の円運動に行き着くまでには、かなりの時間と努力が必要でした。また現在のトルコ東部のヴァン湖畔から発見された上臼(下臼は発見できず)が正しいと確認されれば、その起源は更に300年以上遡ることになります。

では日本最初の石臼となると、大陸から伝来したことは確かなようですが、時期などの詳細は不明です。以下、石臼の権威、三輪茂雄先生の著書「粉と臼」の内容を以下簡単にご紹介します。「日本書紀」には「推古天皇の十八年(610)春三月、高句麗王、僧二人を献じ、名を曇徴(どんんちょう)、はじめて碾磑(てんがい)を造る、けだし碾磑を造るは、このときにはじまるなり」とあります。「碾」とはテン、碾(ヒ)く、またウスなどと読みますが、中国ではその昔、丸い石臼のことを碾磑と呼んでいました。正確には上臼が「碾」で、下臼が「磑」、そして上下一対の石臼が碾磑となります。

よって日本書紀に登場する石臼を日本最古と認定したいところですが、残念ながらこの記述を裏付ける証拠が存在しません。また奈良の東大寺や唐招提寺にも石臼らしき遺物があるとの資料が存在しますが、日本書紀同様、その存在を裏付ける確実な証拠がないため、断定できません。そしてその後、碾磑に関する記録はぱたっと無くなります。当時の食生活は米麦が主食であったので、石臼は必要なく、わずかに貴人にささげる小麦粉のお菓子などがあったとしても、それ程度の製粉は、搗き臼で十分に賄えた、よって碾磑は普及せずに忘れ去られたのであろう、と三輪先生は推測します。

そしてそれから約400年間の後、京都東福寺にわが国最古の石臼古文書が出現します。これは円爾弁円(えんじ・べんえん)が仁治2年(1241)に中国から持ち帰ったと言われ、精米、製粉機の資料に関してはわが国最古です。図面には2台の石臼とそれに連動された篩分け機が描かれています。興味深いことに一方の石臼には「茶」、そして他方には「麺」と表記されています。ただ残念ながらこの製粉工場が実際に建設されたかどうかは不明です。

円爾弁円が中国から持ち帰った資料(1241年)

円爾弁円が中国から持ち帰った資料(1241年)

では現存する最古の石臼はといえば、九州・太宰府の観世音寺(かんぜおんじ)の石臼になります。直径1.03m、上臼高さ21cm、下臼高さ28cm、重量は上下それぞれ推定約400kgという巨大な石臼です。寛政10年(1798)の「筑前国風土記」には既に「茶臼」として現在位置にあることが記されています。ただその大きさや形状から「茶臼」ではあり得ず、よって「鬼の茶臼」と俗称されたこともあります。

三輪先生は、当初この臼の用途として、臼の目の形状から、水を流しながら功績の粉鉱物質の原料、つまり朱か金の原鉱を湿式粉砕していたと推測しました。古代における朱の製造は、寺院建設には必要不可欠だったからです。ただその後の研究により、豆腐製造用と考えるに至りました。仏教の殺生の戒律を普及させるには魚介類に代わるたんぱく源としての豆腐が必要であったことも一因です。何れにしてもこの観世音寺の石臼が現在確認されている最古の石臼になります。

太宰府観世音寺の石臼

太宰府観世音寺の石臼